2010年2月13日土曜日

日本交通の栄光と挫折・川鍋一朗研究 No.8(最終回)

編集長の道草

連載特集:日本交通の栄光と挫折・川鍋一朗研究 No.8(最終回)

経営者として真価が問われる川鍋一朗氏
社長辞任・復帰のドタバタ分社化の陳腐

【タクシージャパン No.135号(09.12.25日号)より転載】

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十 月二十五日付の本紙連載特集第七回の原稿を執筆している最中に「川鍋一朗氏が日本交通の社長を辞めた」という情報が入って、慌てた。日本交通の社長を辞任 したとなれば、最終回となる今回の連載特集が、意味をなさなくなってしまうからだ。法務局で調べたところ、すでに中曽根康弘元総理の孫娘との結婚の前に社 長を辞任しており、結婚式の後に法務局に届けていた。その後に、あわてて社長に戻っている。これは一体どうしたことか。

 一説では、国際 自動車がおこなったように、かなり厳しい行政処分に対して分社で処分の影響を最小限に食い止めようとしたという。もしそうだとしても、これはおかしい。す でに平成十八年には五社に分社しており、この際、新・旧会社に、川鍋氏は社長として入っていたのである。三年足らずの間に、この分社方式に関するルールが 変わった事実は無い。平成十八年に五社へ分社、そして今年になって二社へ集約、そしてまたまた分社するという不思議? 経営の効率化などの建前論とは異な る事情があるのだろう。

 ともかく創業者である川鍋秋蔵氏が築き上げた日本交通王国は、川鍋達朗氏の時代に瓦解した。それを一朗氏が再興できるのか。真価が問われるのは、むしろこれからである。(文責=高橋正信)



●空白の一か月余 
 一部報道では、日本交通の社長を辞任したのは、瑕疵(かし)=誤りだったという。であれば、辞任の登記を錯誤ということで抹消すればいいのだが、そうはなっていない。

 法人登記簿謄本を取り寄せてみると、辞任は有効となっており、改めて就任しているということになる。九月八日に辞任してから十月十三日に再就任しているのだから、一か月以上の空白の期間ができている。
 なぜ、こんなことになってしまったのか。

 現在、品川区八潮にハイヤー・タクシー事業を行う日本交通が二社ある。これを分社するために、一朗氏ら主だった役員が辞任したという。

 しかし、平成十八年において、すでに日本交通は五社に分社しているのである。資本金は一億円と一千万円で、社長は一朗氏となっており、名前も日本交通と同名である。

  異なるのは最初の法人の登記場所。それぞれ三鷹市野崎・世田谷区池尻・豊島区東池袋・足立区千住関屋町・港区元麻布となっている。そして会社登記後二か月 足らずで、五社とも八潮の本社に移転させている。そして今年の二月にこの五社を二社に集約。分社していた期間は、わずか三年間。そしてまた、分社するとい うのである。

 国際自動車が事業許可を取り消されたが、その前に国際自動車城南・城西・城東・城北の四社に分社して、処分のショックを最小限に食い止めようとしたのは周知の事実である。

  国際自動車は九百十台( タクシー三百二十一台、ハイヤー五百八十九台)の許可が取り消されたが、経営上のダメージについては、今年の決算内容を発表する上で「二億円程度の影響」 との見解を示している。取り消し処分前の分社は国際自動車グループを存続させるための、苦肉の策だったといえよう。

 その意味で日本交通が厳しい行政処分を受けることが予想され、国際自動車の分社化方式を採用しようと考えたとしても、おかしくない。

●三百億円前後の不足金
 日本交通はグループで独自の厚生年金基金を運営している。この基金を解散させようと模索していたのだが、結局は解散が出来ずに断念した。その結果、厚生労働省が平成十八年十二月二十七日に、日本交通連合厚生年金基金を指定基金にしているのである。

 この指定基金とは、厚生労働省が積立金不足によって財政が悪化している基金の財政再建について、重点的な指導を行うことである。

 日本交通が五社に分社したのが、平成十八年の二月ないし三月である。日本交通連合年金基金が指定基金となったのは、平成十八年の年末。

 この五社の分社化は、根拠が無いが、年金基金対策だったのかも知れない。分社してから年金基金の解散を諦めたのではなく、年金基金の不足金が膨大となり解散できない中で、何らかの方法を模索しようとしたのではないか。

  例えば、分社した五社の事業目的を見ると、タクシー事業はもちろん貸切バス、自動車整備、さらにクリーニング業や、信用調査・経営コンサルタント・遊技 機・遊戯用コンピューターソフトの販売など、三十二の事業が並んでいる。単なる事業の効率化を目指す分社なら、三十二もの事業を目的に掲げる必要は無いは ず。何かしようとした目的は達成されずに、三年足らずでまた二社に集約したのではないだろうか。とにかく不可解な分社対応である。

 日本交通の年金基金は、現時点で三百億円前後の積み立て不足金が発生している財務状況だといわれている。この不足金を穴埋めできる見通しは、現在の日本交通の売り上げ・利益構造からいって到底、無理であろう。

 というよりも二代目の達朗氏の時代に年金基金の不足金が百五十億円となっており、「資金手当てがつかず年金基金は解散できない」と達朗氏が発言していた。その後も不足金が増え続け、いくら利益を上げてもこの簿外の負債が、一朗氏の肩に重くのしかかっているのである。


●ニッポンチャチャチャ
 現在の八潮の日本交通本社は時期を見て移転する計画があり、すでに看板も取り外している。その理由は、経費高。本社の建物はJR貨物が所有し、日本交通に一棟丸貸ししている。その賃料が高く、さらに駅からかなり遠いためといわれている。

 その背景には、売り上げが大きく落ち込んでいることがあげられる。とりわけハイヤー顧客もそうだが、チケット扱い額などは四十%前後のダウンといわれる。その上に減車を求められる情勢で、社長就任時の五か年計画は達成できないことになる。

  ここで本紙では、おせっかいながら日本交通の本社を移転する場合、それをきっかけに社名を変更することを提案したい。というのは、創業者の秋蔵氏が作った のは日本交通(ニッポンコウツウ)である。ところが秋蔵氏が亡くなって以降、いつの間にか日本交通(ニホンコウツウ)に。もともと東京の日本交通は「ニッ ポンコウツウ」で、大阪や鳥取でタクシー、バス事業を手広く展開している同名の日本交通が「ニホンコウツウ」として棲み分けしていたのである。

  何年か前に日本交通の秘書課に、いつから社名が変わったのかを問い合わせたことがあるが、調べてもらった結果、「分からない」という返事であった。秋蔵氏 の心構えや組織の運営方針などを振り返り、「ふるきを訪ねて新しきを知る」という日本交通再興の原点に返るためにも、ニッポンコウツウの社名の読み方に戻 してみるのも一考ではないだろうか。

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●東洋交通買収
 平成十九年七月二十五日、タクシー三百台規模の東洋交通の社長に、一朗氏が就任している。その直前となる七月九日に、新東洋交通を設立。その半年後の平成二十年二月一日に、東洋交通を新東洋交通に吸収合併させ、そして新東洋交通の社名を東洋交通に変更している。

  旧東洋交通は都内北区に五百台収容できる立体駐車場とLPガススタンド、整備工場、それに展望風呂を備えた社屋を有していた。これらの不動産と建物を含 め、買収したと報じられた。日本交通のホームページにも、「グループ化第一号の東洋交通の株式すべてを、譲り受けることで合意しました」と記している。し かし一朗氏は当時、東洋交通買収について「苦渋の選択だった」と、およそ買収する側が言うセリフと異なる心情を、業界紙の記者会見で語っていたのが印象的 だった。

 また、昨年八月には蔦交通を買収し、グループ化している。さらにその他のグループ会社九社の一部に、M&Aを水面下で打診する 動きをみせている。不況や特措法成立による減車などで、タクシーの営収は二十%前後落ち込み、ハイヤーはそれ以上だ。日本交通の二〇〇八年五月期の売り上 げは、五百十七億六千三百万円(関係会社を含む)。これから単純に二十%売り上げダウンしたら、百三億円の減収になる。タクシーとハイヤーを専業とする日 本交通にとって、これらの大幅な売り上げダウンは経営上、深刻だ。

 創業者秋蔵氏が昭和四年に川鍋自動車商会を設立した時のことを、思い 出してみる。会社設立一か月後に、史上最大の世界大恐慌が起こったのである。そのことを考えると、この時に秋蔵氏が取り組んだ試行錯誤の中に、今の日本交 通の現状を克服する大切なヒントが隠されているように思われる。

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●メインバンクの悩み
 日本交通のメインバンクは、M銀行である。二〇〇五年に一朗氏が社長に就任した時に、株式会社日交総本社が申請していた三百九十七億円の特別清算を、東京地裁が決定している。このときM銀行は大きな損失を被ることになったが、現在も引き続きメインバンクを務めている。

  そしてM銀行は、昨年のリーマンショックを受けて営業収入が大幅にダウンしている状況を憂慮し、業界の水面下で企業譲渡に動いたという。しかしこの交渉 は、結局は成就しなかった。それは、M銀行側は、簿外の年金基金の積み立て不足金が三百億円前後もあることを念頭に置かずに交渉。それが相手からの指摘で 判明したことで、断念したといわれている。


●これまではイントロ
 この連載企画を掲載することを思いついたのは、昨年出版された「タクシー王子、東京を往く」を読んだことによる。その理由は内容が我田引水的であり、大手事業者が自らタクシー乗務をしているのが、特別なことのように書かれているからだ。

  創業者の秋蔵氏には晩年にお目にかかったが、気骨があり、頑固そのものの御大だった。その秋蔵氏が歩んだ道を記した書籍と比べても、前述の「タクシー王 子」は、一朗氏自身のPR色が色濃く出ている。それがリアリティの積み重ねならいいが、本を出版するためだけに一か月十三乗務をしたような読後感だ。 名 門大学を出て、アメリカでMBAを取得し、帰国後は日本の有名コンサル会社に入社したというきらびやかな経歴は、世間の耳目を集めるにはいいが、タクシー 経営には影響しない。

 肝心なのは、タクシー事業の本質、乗務する人間の習性をきっちりと抑えていないと、事業家としては成功しないということだ。日本交通を再興するために何が求められているのか。社長就任から今日まではイントロ。真価が問われるのはむしろこれからである。



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☆過去の見出し

第1 回・タクシー王子の言動から見えてくるもの それは、悪戦苦闘する等身大の青年の姿
2009.7.25 No126

第2 回・見習いがいきなり飛行機の操縦桿を握る 資産・子会社売り尽くす怒涛の撤退作戦
2009.8.10 No127

第3 回・後世に徳を残す。では、前世と現世は? 社長就任の翌春には六本木ヒルズ族入り
2009.8.25 No128

第4 回・日本交通王国の創業者はヒヨッコだった 梁瀬自動車の見習い運転手から羽ばたく
2009.9.10 No129

第5 回・昭和大恐慌の逆風の中で独立した秋蔵氏 自分は何をすべきかと自問自答の一朗氏
2009.9.25 No130

第6 回・心の拠り所は家族、中でも母親の存在! 皇室や政・財界につながる華麗なる閨閥
2009.10.10 No131

第7 回・このたび中曽根康弘元総理の孫娘と結婚 その時、日本交通の社長を辞任していた
2009.10.25 No132

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