2010年2月18日木曜日

プリンスホテル 大量出向続出

プリンスホテル 大量出向続出

1 :まっし:2010/02/06(土) 23:22:37 ID:po5kCxdl0
1月16日付けで、プリンスホテルでホテルマンを
警備会社へ大量出向させてます。なにやら数百人規模とか。
第二弾で今度は清掃員にさせるとか。経費削減もいいけど、
まず上層部の給与大幅カットとか、やることやって欲しい
もんすね。従業員を捨て駒のように扱う会社は将来がないや。

2 :宿無しさん@予約いっぱい:2010/02/07(日) 08:43:09 ID:36ht7Rz/0
別スレ立てるほどネタのある話題じゃないし辞令が出てから20日以上経った今スレ立てる意味は?

3 :宿無しさん@予約いっぱい:2010/02/08(月) 06:36:41 ID:8IKFinYB0
不況の最中、仕事があるだけ感謝すべきことだと思う。
ただし、警備の人はしっかりトレーニングしないと単なる穀潰しになってしまう。
場所はホテルじゃないけど、本当にいざという時には警備員が逃げたり、
見て見ぬ振りをしてる場面を何度も見たことがある。

4 :宿無しさん@予約いっぱい:2010/02/08(月) 10:22:08 ID:i1hq1Y490
警備員って、危険だと思ったら逃げていいんでしょ?
たしかそう指導されてるはずだが・・・。


5 :宿無しさん@予約いっぱい:2010/02/13(土) 12:01:20 ID:BAbiH3zk0
週刊文春2月18日号 35Pか?

6 :宿無しさん@予約いっぱい:2010/02/14(日) 00:38:13 ID:aHevowVP0
>>4
確かにそうなのかも知れないけど、ちょっと893風の人が責任者に絡んでても
見て見ぬふりとかしてる場面をみるとイライラする。
まあ、自分の身を守ることの方が大切かも知れないけどね。

7 :日光:2010/02/18(木) 00:03:27 ID:MtT+BfM30
いつまでそんな会社にかかわっているのでしょうか?
いずれ包みサンがいなくなって立ち直るすべのない会社などみんな早く
やめたほうが賢明ですよ。
みなさん、一日も早い再出発を!!



8 :宿無しさん@予約いっぱい:2010/02/18(木) 02:06:55 ID:OBgnoJ6k0
>>7
無計画に業務拡大して借金経営を続けたのが堤な訳で...むしろ、
責任を取って堤の残りの資産3000億円を全て寄付しろやといいたい。
包みには竜の血が欲しいとか馬鹿な事を考える前に、まともな経営しろと言いたい

2010年2月13日土曜日

日本交通の栄光と挫折・川鍋一朗研究 No.8(最終回)

編集長の道草

連載特集:日本交通の栄光と挫折・川鍋一朗研究 No.8(最終回)

経営者として真価が問われる川鍋一朗氏
社長辞任・復帰のドタバタ分社化の陳腐

【タクシージャパン No.135号(09.12.25日号)より転載】

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十 月二十五日付の本紙連載特集第七回の原稿を執筆している最中に「川鍋一朗氏が日本交通の社長を辞めた」という情報が入って、慌てた。日本交通の社長を辞任 したとなれば、最終回となる今回の連載特集が、意味をなさなくなってしまうからだ。法務局で調べたところ、すでに中曽根康弘元総理の孫娘との結婚の前に社 長を辞任しており、結婚式の後に法務局に届けていた。その後に、あわてて社長に戻っている。これは一体どうしたことか。

 一説では、国際 自動車がおこなったように、かなり厳しい行政処分に対して分社で処分の影響を最小限に食い止めようとしたという。もしそうだとしても、これはおかしい。す でに平成十八年には五社に分社しており、この際、新・旧会社に、川鍋氏は社長として入っていたのである。三年足らずの間に、この分社方式に関するルールが 変わった事実は無い。平成十八年に五社へ分社、そして今年になって二社へ集約、そしてまたまた分社するという不思議? 経営の効率化などの建前論とは異な る事情があるのだろう。

 ともかく創業者である川鍋秋蔵氏が築き上げた日本交通王国は、川鍋達朗氏の時代に瓦解した。それを一朗氏が再興できるのか。真価が問われるのは、むしろこれからである。(文責=高橋正信)



●空白の一か月余 
 一部報道では、日本交通の社長を辞任したのは、瑕疵(かし)=誤りだったという。であれば、辞任の登記を錯誤ということで抹消すればいいのだが、そうはなっていない。

 法人登記簿謄本を取り寄せてみると、辞任は有効となっており、改めて就任しているということになる。九月八日に辞任してから十月十三日に再就任しているのだから、一か月以上の空白の期間ができている。
 なぜ、こんなことになってしまったのか。

 現在、品川区八潮にハイヤー・タクシー事業を行う日本交通が二社ある。これを分社するために、一朗氏ら主だった役員が辞任したという。

 しかし、平成十八年において、すでに日本交通は五社に分社しているのである。資本金は一億円と一千万円で、社長は一朗氏となっており、名前も日本交通と同名である。

  異なるのは最初の法人の登記場所。それぞれ三鷹市野崎・世田谷区池尻・豊島区東池袋・足立区千住関屋町・港区元麻布となっている。そして会社登記後二か月 足らずで、五社とも八潮の本社に移転させている。そして今年の二月にこの五社を二社に集約。分社していた期間は、わずか三年間。そしてまた、分社するとい うのである。

 国際自動車が事業許可を取り消されたが、その前に国際自動車城南・城西・城東・城北の四社に分社して、処分のショックを最小限に食い止めようとしたのは周知の事実である。

  国際自動車は九百十台( タクシー三百二十一台、ハイヤー五百八十九台)の許可が取り消されたが、経営上のダメージについては、今年の決算内容を発表する上で「二億円程度の影響」 との見解を示している。取り消し処分前の分社は国際自動車グループを存続させるための、苦肉の策だったといえよう。

 その意味で日本交通が厳しい行政処分を受けることが予想され、国際自動車の分社化方式を採用しようと考えたとしても、おかしくない。

●三百億円前後の不足金
 日本交通はグループで独自の厚生年金基金を運営している。この基金を解散させようと模索していたのだが、結局は解散が出来ずに断念した。その結果、厚生労働省が平成十八年十二月二十七日に、日本交通連合厚生年金基金を指定基金にしているのである。

 この指定基金とは、厚生労働省が積立金不足によって財政が悪化している基金の財政再建について、重点的な指導を行うことである。

 日本交通が五社に分社したのが、平成十八年の二月ないし三月である。日本交通連合年金基金が指定基金となったのは、平成十八年の年末。

 この五社の分社化は、根拠が無いが、年金基金対策だったのかも知れない。分社してから年金基金の解散を諦めたのではなく、年金基金の不足金が膨大となり解散できない中で、何らかの方法を模索しようとしたのではないか。

  例えば、分社した五社の事業目的を見ると、タクシー事業はもちろん貸切バス、自動車整備、さらにクリーニング業や、信用調査・経営コンサルタント・遊技 機・遊戯用コンピューターソフトの販売など、三十二の事業が並んでいる。単なる事業の効率化を目指す分社なら、三十二もの事業を目的に掲げる必要は無いは ず。何かしようとした目的は達成されずに、三年足らずでまた二社に集約したのではないだろうか。とにかく不可解な分社対応である。

 日本交通の年金基金は、現時点で三百億円前後の積み立て不足金が発生している財務状況だといわれている。この不足金を穴埋めできる見通しは、現在の日本交通の売り上げ・利益構造からいって到底、無理であろう。

 というよりも二代目の達朗氏の時代に年金基金の不足金が百五十億円となっており、「資金手当てがつかず年金基金は解散できない」と達朗氏が発言していた。その後も不足金が増え続け、いくら利益を上げてもこの簿外の負債が、一朗氏の肩に重くのしかかっているのである。


●ニッポンチャチャチャ
 現在の八潮の日本交通本社は時期を見て移転する計画があり、すでに看板も取り外している。その理由は、経費高。本社の建物はJR貨物が所有し、日本交通に一棟丸貸ししている。その賃料が高く、さらに駅からかなり遠いためといわれている。

 その背景には、売り上げが大きく落ち込んでいることがあげられる。とりわけハイヤー顧客もそうだが、チケット扱い額などは四十%前後のダウンといわれる。その上に減車を求められる情勢で、社長就任時の五か年計画は達成できないことになる。

  ここで本紙では、おせっかいながら日本交通の本社を移転する場合、それをきっかけに社名を変更することを提案したい。というのは、創業者の秋蔵氏が作った のは日本交通(ニッポンコウツウ)である。ところが秋蔵氏が亡くなって以降、いつの間にか日本交通(ニホンコウツウ)に。もともと東京の日本交通は「ニッ ポンコウツウ」で、大阪や鳥取でタクシー、バス事業を手広く展開している同名の日本交通が「ニホンコウツウ」として棲み分けしていたのである。

  何年か前に日本交通の秘書課に、いつから社名が変わったのかを問い合わせたことがあるが、調べてもらった結果、「分からない」という返事であった。秋蔵氏 の心構えや組織の運営方針などを振り返り、「ふるきを訪ねて新しきを知る」という日本交通再興の原点に返るためにも、ニッポンコウツウの社名の読み方に戻 してみるのも一考ではないだろうか。

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●東洋交通買収
 平成十九年七月二十五日、タクシー三百台規模の東洋交通の社長に、一朗氏が就任している。その直前となる七月九日に、新東洋交通を設立。その半年後の平成二十年二月一日に、東洋交通を新東洋交通に吸収合併させ、そして新東洋交通の社名を東洋交通に変更している。

  旧東洋交通は都内北区に五百台収容できる立体駐車場とLPガススタンド、整備工場、それに展望風呂を備えた社屋を有していた。これらの不動産と建物を含 め、買収したと報じられた。日本交通のホームページにも、「グループ化第一号の東洋交通の株式すべてを、譲り受けることで合意しました」と記している。し かし一朗氏は当時、東洋交通買収について「苦渋の選択だった」と、およそ買収する側が言うセリフと異なる心情を、業界紙の記者会見で語っていたのが印象的 だった。

 また、昨年八月には蔦交通を買収し、グループ化している。さらにその他のグループ会社九社の一部に、M&Aを水面下で打診する 動きをみせている。不況や特措法成立による減車などで、タクシーの営収は二十%前後落ち込み、ハイヤーはそれ以上だ。日本交通の二〇〇八年五月期の売り上 げは、五百十七億六千三百万円(関係会社を含む)。これから単純に二十%売り上げダウンしたら、百三億円の減収になる。タクシーとハイヤーを専業とする日 本交通にとって、これらの大幅な売り上げダウンは経営上、深刻だ。

 創業者秋蔵氏が昭和四年に川鍋自動車商会を設立した時のことを、思い 出してみる。会社設立一か月後に、史上最大の世界大恐慌が起こったのである。そのことを考えると、この時に秋蔵氏が取り組んだ試行錯誤の中に、今の日本交 通の現状を克服する大切なヒントが隠されているように思われる。

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●メインバンクの悩み
 日本交通のメインバンクは、M銀行である。二〇〇五年に一朗氏が社長に就任した時に、株式会社日交総本社が申請していた三百九十七億円の特別清算を、東京地裁が決定している。このときM銀行は大きな損失を被ることになったが、現在も引き続きメインバンクを務めている。

  そしてM銀行は、昨年のリーマンショックを受けて営業収入が大幅にダウンしている状況を憂慮し、業界の水面下で企業譲渡に動いたという。しかしこの交渉 は、結局は成就しなかった。それは、M銀行側は、簿外の年金基金の積み立て不足金が三百億円前後もあることを念頭に置かずに交渉。それが相手からの指摘で 判明したことで、断念したといわれている。


●これまではイントロ
 この連載企画を掲載することを思いついたのは、昨年出版された「タクシー王子、東京を往く」を読んだことによる。その理由は内容が我田引水的であり、大手事業者が自らタクシー乗務をしているのが、特別なことのように書かれているからだ。

  創業者の秋蔵氏には晩年にお目にかかったが、気骨があり、頑固そのものの御大だった。その秋蔵氏が歩んだ道を記した書籍と比べても、前述の「タクシー王 子」は、一朗氏自身のPR色が色濃く出ている。それがリアリティの積み重ねならいいが、本を出版するためだけに一か月十三乗務をしたような読後感だ。 名 門大学を出て、アメリカでMBAを取得し、帰国後は日本の有名コンサル会社に入社したというきらびやかな経歴は、世間の耳目を集めるにはいいが、タクシー 経営には影響しない。

 肝心なのは、タクシー事業の本質、乗務する人間の習性をきっちりと抑えていないと、事業家としては成功しないということだ。日本交通を再興するために何が求められているのか。社長就任から今日まではイントロ。真価が問われるのはむしろこれからである。



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☆過去の見出し

第1 回・タクシー王子の言動から見えてくるもの それは、悪戦苦闘する等身大の青年の姿
2009.7.25 No126

第2 回・見習いがいきなり飛行機の操縦桿を握る 資産・子会社売り尽くす怒涛の撤退作戦
2009.8.10 No127

第3 回・後世に徳を残す。では、前世と現世は? 社長就任の翌春には六本木ヒルズ族入り
2009.8.25 No128

第4 回・日本交通王国の創業者はヒヨッコだった 梁瀬自動車の見習い運転手から羽ばたく
2009.9.10 No129

第5 回・昭和大恐慌の逆風の中で独立した秋蔵氏 自分は何をすべきかと自問自答の一朗氏
2009.9.25 No130

第6 回・心の拠り所は家族、中でも母親の存在! 皇室や政・財界につながる華麗なる閨閥
2009.10.10 No131

第7 回・このたび中曽根康弘元総理の孫娘と結婚 その時、日本交通の社長を辞任していた
2009.10.25 No132

日本交通の栄光と挫折・川鍋一朗研究 No.7

編集長の道草

連載特集:日本交通の栄光と挫折・川鍋一朗研究 No.7

このたび中曽根康弘元総理の孫娘と結婚
その時、日本交通の社長を辞任していた

【タクシージャパン No.132号(09.10.25日号)より転載】

前号では、川鍋一朗氏につながる華麗なる人脈を縦糸に、そして等身大の自分と向き合う揺れる心を横糸に、日本交通における氏のコーポレート・ガバナンスの今に迫った。

  氏の母方の家系は藤山コンツェルンや福沢諭吉らに、そして父方の家系が皇室の外戚で東京ガスのトップを務めてきた安西家に連なる。「名門の〝ものさし〟は 天皇家との距離できまる」(神一行著『閨閥』より)とすれば、この安西家こそ日本の支配層である政財界の中枢を担う、名門中の名門の家柄といえる。

 そして一朗氏は十月四日、中曽根康弘元総理の長男である中曽根弘文前外務大臣の長女と、都内のホテルで盛大な結婚披露宴を催している。

 今号では、福沢諭吉や藤山コンツェルンにつながる母方の家系と、安西家につながる父方の家系と、今回の婚姻でつながる鹿島・中曽根家を略系図でみてみる。前号と併せて見ていただければ、日本の支配者層に驚くほど広範に、その人脈が張り巡らされていることがわかる。

  一千九百億円あった債務を資産売却で一千三百億円処理し、残る六百億円を特別清算してなお、メインバンクが一朗氏を日本交通のCEO(最高経営責任者)に 任命し続けている訳は、この華麗なる閨閥にあるのかも。そして元総理の孫娘との婚姻は、結果的にこの閨閥をさらに強固なものに。一方で日本交通の社長を辞 任し、そして、辞任を撤回するというドタバタが。その訳は…。(文責=高橋正信))




●“逆タマ”?
 週刊新潮十月一日号に「『中曽根大勲位』孫娘と結婚指輪を選んだ大手タクシー『御曹司社長』」の見出し記事が、掲載されている。内容は、隠し撮り風でインタビューに答えている。ご覧のとおり、やらせっぽいのだが、それはわざとらしいインタビューもしかり。

 「去年の夏、共通の友人を通じて知り合い、私が一目惚れしました。最初から、ご家族のことは知っていましたが、彼女自身にひかれたので。私は慶応大学のスキー部でしたから、お互い体育会系で話しがあったというか、歳の差は感じませんでした」

 私が一目惚れした→中曽根康弘元総理の孫で中曽根弘文前外務大臣の長女であることは知っていた→が、彼女自身に引かれた、と言っているのであり、随分と自意識過剰なコメントに聞こえる。




  一朗氏が家柄ではなく人物本位で配偶者を選んだと言っていることとは別にして、鹿島・中曽根家略系図をご覧いただきたい。鹿島建設・梁瀬自動車・大昭和製 紙・トヨタ自動車などの誰もが知っている財界の中心的企業群や経団連会長や国会議員や大学教授などに、好むと好まざるとにかかわらず、つながっていくので あった。そういう意味で今回の結婚は、すべての資産を失った一朗氏にとって、いわば〝逆タマ〟といえば言い過ぎか。






●社長退任
 この稿を作成していた最中、一朗氏が日本交通の社長を退任したというニュースが飛び込んできた。さっそく調査したところ、以下のことが判明した。

 ハイヤー・タクシー事業を営む日本交通(資本金一億円、平成十九年六月一日設立、本社東京都品川区八潮三-二-
三 十四、二階)と日本交通(資本金一千万円、平成十八年二月二日設立、本社東京都品川区八潮三-二-三十四、六階)の二社についていずれも、一朗氏が代表取 締役を辞任。取締役の林紀孝・中島一雄・上田敏・松嶋俊則の四氏、それに監査役の名取正人氏が辞任。代わって代表取締役の豊永信夫氏・取締役に御園滋芳・ 常盤和美の二氏が、そして監査役に大貫昭憲氏が就任しているのである。その辞任と就任は九月八日付で、登記日は一朗氏の結婚の三日後の十月七日、そして運 輸当局への届出は、十月十三日になっており、このことは社内的にも正式な発表が行なわれていないところをあわせ考えると、そこに隠された何らかの恣意的な 意図が隠されているといえるだろう。

 更に調査を進めていくと、昨年買収した蔦交通や一昨年に経営傘下に入れた東洋交通の二社について は、従来どおり一朗氏が代表取締役を務めているほか、ハイタク外の別会社である日本交通(資本金一億円、昭和二十五年七月十三日設立、本社東京都品川区八 潮三-二-三十四、一階)の代表取締役は引き続き一朗氏が務めているなど、日本交通グループ全体のCEOであることは間違いなさそうだ。

●分割合併の怪


  一朗氏の社長退任の情報を元に調査した結果、日本交通は頻繁に会社分割と合併を繰り返してきた事実が浮き上がってきた。元々川鍋秋蔵氏の手によって終戦直 後に立ち上がった日本交通は、周辺事業の拡大によって日交総合本社に社名を変更し、ハイヤー・タクシー部門は昭和二十五年に設立した日本交通に継承させ て、今日に至っていた。

 その日本交通を平成十八年に六社に分割して、東京都品川区八潮三-二-三十四のJR貨物が所有する本社ビル車庫 の一階~七階までに、それぞれの階ごとに同一社名の日本交通を一社ずつ配置した。が、しかし、本年二月に二階の日本交通が三階、四階、五階の日本交通を合 併吸収したほか、六階の日本交通が七階の日本交通を同じく吸収していて、現状は一階、二階、六階の三社が存在し、うち一階はハイヤー・タクシー事業外と なっているという。こんなジグソーパズルのような会社の設立ラッシュと頻繁な分割、合併の繰り返しは一体、何を意味するのか。

 それはと もかく、百年に一度の世界金融大恐慌の二番底が懸念される中、タクシー適正化特措法の施行によって、当初の目論見である五千台構想も特措法の前に頓挫のや むなきに至った。「後世に徳を残そう」というのはいいが、〝現世〟の日本交通の台所は一朗氏が社長に就任して以降、かつてない厳しさになっていることは想 像に難くない。一朗氏は、この難局をどう乗り越えて新たな明日に続く地平線をめざすことができるのか。

 いよいよこの連載も次回で幕を引く。連載最終回は、十一月二十五日付本紙に掲載する。

日本交通の栄光と挫折・川鍋一朗研究 No.6

編集長の道草

連載特集:日本交通の栄光と挫折・川鍋一朗研究 No.6

心の拠り所は家族、中でも母親の存在!
皇室や政・財界につながる華麗なる閨閥

【タクシージャパン No.131号(09.10.10日号)より転載】

  前号では、故川鍋秋蔵氏の日本交通王国完成までの苦難の道のりを、駆け足で振り返った。現在の日本交通は、かつて東急電鉄の故五島慶太氏が支配し、新規設 立した日東自動車改め日本交通をルーツとしていることが分かった。戦時下でやむなく川鍋自動車商会を企業合同に参加させるのだが、敗戦の混乱の中で資本集 中排除法により、好運にも秋蔵氏は日本交通のオーナー経営者の座を射止めるのであった。

 そして秋蔵氏は、破竹の勢いでハイヤー・タク シー事業を核に三十社を超える多角化戦略を成功に導き、押しも押されもせぬトップ企業群を構築するのであった。その歩みとともに、ごく日本の支配階層であ る政・財界の主要人物との結びつきを強めていった。その結果、皇室の外戚や財閥筋や経済界に華麗なる閨閥を張り巡らすことになるのである。

  その孫の川鍋一朗氏は、アメリカナイズされた経営学を習得しておきながら、なにやら浪花節的な「創業家」「三代目」「家業」などの文言をしきりに多用する のはなぜだろうか。これらの文言は、多くの資産を失った一朗氏にとって拠り所とする、唯一の“無形資産”なのかもしれない。

一朗氏につながる華麗なる人脈を縦糸に、そして等身大の自分と向き合う氏の揺れる心を横糸に、日本交通のいまに迫る。 (文責=高橋正信)


●藤山コンツェルン
川 鍋一朗氏は、母方の家系を「“私”の部分で、私の人間形成に大きな影響を与えている」と言っている。その母方の家系を見ていく。一朗氏の母親は、旧姓広瀬 為宇さん。そのお母、つまり一朗氏の祖母の広瀬櫻子さんは、藤山コンツェルンの創始者藤山雷太氏の二女。長男は、外務大臣も務めた藤山愛一郎氏で、同コン ツェルンの二代目。政権の座に行く度か挑戦するが果たせず、「絹のハンカチを泥まみれにした」といわれた。



  藤山雷太氏は、現在の佐賀県伊万里市の庄屋を務めた藤山覚左衛門、テル夫婦の三男として、文久三年(明治元年の六年前)に生まれている。長崎師範学校を卒 業と同時に助教諭となり、三年間教鞭をとった後に上京して、慶応義塾で福沢諭吉氏に学んだ。明治二十年に二十五歳で卒業して、同年に長崎県会議員に当選し ている。その後に県会議長として長崎の外国人居留地の借地料据え置き問題を解決に導くのだが、その時に福沢諭吉氏を介して福沢氏の姉の子である中上川彦次 郎氏(山陽鉄道社長)の知遇を得て、黒田清隆、大隈重信、鳩山和夫の各氏ら明治の宰相や衆議院議長などを務めた錚々たる政界人と知り合うとともに、中上川 の夫人の妹・みねさんと結婚するのだった。この結果、藤山家はいわば福沢諭吉氏と縁戚関係になるのだった。

 一朗氏が父達郎氏と同じく慶応大学出身で、創業者の秋蔵氏も藤山雷太氏も慶応大学の評議委員を務めるなど、当たり前といえば当たり前のように“慶応閥”である。

  藤山雷太氏は、明治二十四年年末に二十九歳で実業家を志し上京。翌年に三井銀行に入社し、若いながら抵当係長という重要ポストにつき、財界に広くかかわる 人脈を持つのだった。明治四十二年に日本初の商業銀行を作り、五百近くの企業の創設に携わり「日本資本主義の父」といわれた渋沢栄一氏に乞われて大日本精 糖の社長に就任し、贈賄事件後の倒産寸前の状態を二年余りで改善し、再建を果たして経営手腕を発揮した。その後、大正十四年に東商・日商の会議所会頭に就 任し、押しも押されもしない財界の重鎮となるのだった。(「藤山雷太伝」藤山愛一郎発行者、千倉書房製本、非売品、昭和十四年発行に詳しい)


●エリートなどではない
 昨年、ある就職情報サイトのQ&Aで、一朗氏は次のように語っている。
Q:経歴を見ると、まさに“エリート”。近寄りがたいと思われることも多いのでは?
A(一 朗氏):一度も受験を経験したことがないのがコンプレックスで、マッキンゼー時代の後輩や部下は東大、京大、一橋といったキレ者ぞろい。周囲は頭のいい人 だらけで、そんな集団の中でむしろ引け目を感じていたぐらいです。(略)入社前の面接で人事の人には前もってこんな話をしました。「長くて五年経ったら、 マッキンゼーを辞めて家業を継ぎたい」と。そうしたら人事の方は、「それも面白いプランですね。期限を決め、その間全力で頑張り、会社に貢献してくださ い」と言ってくれました。

 ここから見えてくるのは、一朗氏は慶応大学をエスカレーターで入り、そしてアメリカ留学でMBAを取得していることや、マッキンゼー入社に際して試験を受けたことが無いと、正直に自らを開陳していることである。

  そしてマッキンゼー時代を振り返り、「結局、目立った成果を出せずに退職。体調を崩し、二ヶ月間休職した」、「仕事で褒められたことは、一度もない」、 「マッキンゼー時代は、私にとって大きな挫折の経験」と述懐。「近寄りがたいエリート」とはほど遠い、悩める青年の姿であったことを自認している。

  たしかに一朗氏の母親の母親の母親である人、つまり曾祖母の姉の夫の母親が福沢諭吉の姉に当たる。実にややこしいが、一朗氏はれっきとした慶応義塾の創始 者、福沢諭吉氏の親戚である。母方の家系を「“私”の部分で、私の人間形成に大きな影響を与えている」と言っている所以は、どうもこの辺にあるのかもしれ ない。




●皇室の外戚にも
  一方、一朗氏は、「川鍋の家系が私の社長としての“公”の部分を形作っている」としている。華麗なる閨閥ということでは母方もたいしたものだが、父方がも う一段たいしたものといえる。(「閨閥 改定新版 特権階級の盛衰の系譜」神一行著、角川書店、平成十四年発行に詳しい)

 秋蔵氏は妻ふさえさんとの間に、二男四女をもうけた。その内、長男達郎氏は先述したとおり、藤山雷太の孫娘を嫁にもらい、一朗氏が誕生している。次女の明子さんは、東急電鉄出身で小田急電鉄の創始者あり、初代社長を務めた安藤楢六氏の子息、信正氏に嫁いでいる。

  そして三女邦子さんは、東京ガスの元会長である安藤邦夫氏に嫁いでいる。安西邦夫氏の父親は、同じく東京ガス元会長の安西浩氏、そしてその安西浩氏の弟で ある安西正夫氏(元昭和電工会長)の息子である安西孝之氏は、元日清製粉名誉会長であった正田英三郎氏の娘恵美子さんを嫁にもらっている。この恵美子さん の姉が、今上天皇と結婚した美智子皇后ということになる。

 したがって安西家は皇室の外戚となり、川鍋家はその縁戚となる。簡単に言え ば、一朗氏のおばさんが皇室の外戚の安西家の人になっており、華麗なる閨閥というわけだ。そればかりか安西家と皇室外戚ということで、その閨閥ネットワー クを見ると現総理を含む歴代の宰相や財界の主要どころが軒並み名を連ねていて、いわゆる先述の「閨閥」にいう「支配家系のネットワーク」が、裾野広く張り 巡らされているのだった。

●新たなネットワークへ
 日本の政・財界を見渡すと、共通する傾向がある。それは、二代目、三代目などの世襲議員、世襲経営者が多いことである。何も政・財界だけでなくタクシー業界を見渡しても同様といえる。これは、一体なにを意味しているのだろうか。

 神一行著「閨閥」のプロローグ「日本は特権閨閥によって支配されている」の小見出しを列挙してみる。
  「能力主義から身分主義への逆行」、「「上流階級を結びつける閨閥の法則」、「驚くべき支配者家系の連結」、「名門の“ものさし”は天皇家との距離できま る」、「正田家を軸とする“現代の華族”たち」、「旧華族家は支配階層の“血の連鎖”の役目」、「閨閥・世襲議員に壟断(ろうだん)された政界」、「特定 の家系が日本を支配している」、「財界にはびこる“世襲社長”」、「特権閨閥の弊害」

 ここから見えてくるものは、政・財界=支配階層を 特定の閨閥が支配しているという構図である。そしてこの華麗なる閨閥に、一朗氏も連結しているのである。このことがなければ、三井住友銀行が約六百億円の 特別清算を行なう大きな損失を被ってなお、一朗氏を日本交通の社長に就かせ、そして現在も三井住友銀行がメインバンクとして関わっている理由が、他に見当 たらない。

 一朗氏は、自著「タクシー王子、東京を往く」で、「一時、周囲からは『もう会社の所有権は諦めたほうがいい』と言われたこと があったが・・・」として、あたかも所有権=支配権があるがごとくに記載している。が、しかし、本紙のこれまでの取材では、日本交通の支配権は一朗氏に無 く、それはメインバンクが掌握しているという情報を得ているということのみ、ここでは言及しておく。

 そして一朗氏の華麗なる閨閥は、更に中曽根元総理、鹿島建設、トヨタ自動車、ヤナセ自動車などに連結する華麗なる閨閥を、自らの婚姻で更に強固にしていくのであった。この詳細は次号十月二十五日付第百三十二号へ続く。


【川鍋秋蔵氏年譜】


日本交通の栄光と挫折・川鍋一朗研究 No.5

編集長の道草

連載特集:日本交通の栄光と挫折・川鍋一朗研究 No.5

昭和大恐慌の逆風の中で独立した秋蔵氏
自分は何をすべきかと自問自答の一朗氏

【タクシージャパン No.130号(09.9.25日号)より転載】


前号では、故川鍋秋蔵氏の出自から梁瀬自動車商会入り、そして川崎造船所への移籍。「松方コレクション」で有名な松方幸次郎の社長付運転手に抜擢され、順風満帆で自動車人生の船出を切ったところを振り返った。

今号は、人生いろいろ、男もいろいろで、お決まりの人生の落とし穴にはまる波乱万丈があり、結局、苦節十年の運転手稼業を経て、いよいよ独立へ踏み出すところに触れる。
そ して川鍋自動車商会を設立。と、ここでまたまた、難儀が降りかかる。時あたかも、昭和四年の世界大恐慌の真っただ中に。百年に一度といわれる世界同時大経 済恐慌の今と、状況が酷似。関係資料を読み解いていくと、秋蔵氏とその孫の一朗氏とに、不思議と良く似た時代の背景、身の回りの出来事が。単なる偶然とい うより、やはり何がしかの縁を感じさせる。

一朗氏が、「創業家」、「三代目」や「家業」と言っているのは、秋蔵氏の孫であり、経営者の継承者という自負からか。いよいよ創業から氏のいう家業としての日本交通が誕生し、日本交通王国の土台が完成するまでを明らかにする。(文責=高橋正信)



●利殖の落とし穴
  日本交通の創業者である川鍋秋蔵氏は、明治三十二年(一八九九年)八月生まれで、生きていれば百十歳ということになる。二十歳で上京し簗瀬自動車商会に 入って運転手になり、そして入社してから九年余が経過した昭和三年四月、念願の独立をはたす。一九二八年式ビュイック幌型新車一台を四千円で購入し、都内 京橋区木挽町八丁目一番にあったトンボ自動車商会の車庫を借り、当時よく見られた同居営業を開始するのであった。

秋蔵氏は独立資金五千円 を確保するのに、九年の歳月を要した。その間に秋蔵氏は、自社の川崎造船所の株を利殖のつもりで少しずつ購入していくのであるが、世界経済の冷え込みに事 実上、株券が紙くず同然の憂き目を見る。さらに貴族院議員をしていたという人物の事業に全貯蓄を投じ、これまた事実上の詐欺にあって文無しに。そこに追い 討ちをかけるように大正十二年(一九二三年)九月一日に関東大震災に見舞われ、住まいを失いホームレスの憂き目も味わうのだった。

そこで 腐らないのが秋蔵氏だった。従来以上にストイックに貯蓄に精励するとともに、投資・投機には一切手を染めずに、貯金は郵便局一本に絞った。失敗から多くの 教訓を学び取り、更に自らを厳しく律して、独立に向けて邁進した。独立の時、秋蔵氏は二十九歳。川鍋一朗氏が日本交通入りしたのも二十九歳。奇しくも同年 齢だった。

●川鍋自動車商会設立
翌昭和四年六月に川鍋自動車商会を設立して、同居営業に終止 符を打った。この時、すでに営業車は五台になっていた。内訳は、秋蔵氏所有が二台、中村福次郎氏が一台、柳沢直治氏が二台。従業員は運転手五人、事務員と 助手を含めて総勢十一人の陣容であった。間もなく中村・柳沢両氏からクルマを買収して、オーナー社長となった。

順風満帆な船出に見える が、川鍋自動車商会を設立した一か月後に緊縮財政政策を採用する浜口雄幸内閣が誕生し、その三か月後にはアメリカのウォール街で株式の大暴落が起こり、歴 史上最大の世界的な大恐慌が起こったのであった。その結果、木挽町界隈の歓楽街は火が消えたようになり、多くの会社が倒産し街に失業者があふれ、当然、ハ イヤー利用は激減し同業他社がバタバタと廃業していった。そんな逆風というより突風の吹きすさぶ中で、創業の辛酸を舐めるのであった。

奇 しくも昨年九月には、リーマンショックによる世界同時大恐慌が発生し、街には、派遣契約を切られた失業者があふれ、ハイヤー・タクシー需要は大幅な落ち込 みをみせている。今世紀最大の大恐慌を秋蔵氏は創業時に遭遇し、百年に一度といわれる金融大恐慌を一朗氏は、日本交通入りした九年目の会社再生途上に出く わしたのである。なにやら因縁浅からず、である。

●小型車戦略が奏功
その時、廃業の危機に直面して、秋蔵氏は考えに考えた。
「これから先は、もう高級車はいらない。実用的な車でなくては」
そ うと決めたら、後は早かった。昭和六年には一台増えて六台あった大型車を全部売り払い、プリムスの小型車十台を新車で購入した。同業他社が、「川鍋はバカ なことをする。いまにつぶれる」といわれる中で、初志を貫徹。これが店じまいしていく同業他社とを峻別する、運命の分かれ道になった。

昭和六年には浜口内閣が総辞職し、満州事変勃発などで景気が好転する中で、川鍋自動車商会の小型車は大いに受けて、着実に業績を伸ばしていくのだった。昭和九年には保有台数を十八台。昭和十一年には、帝国タクシーと有楽タクシー二社を買収するまでになっていた。

そ の後、戦時体制に入っていく中で事業基盤を拡大し、確固のものにしていく。昭和十二年には朝日ツーリング、橘自動車商会と川鍋自動車商会の三社で東宝自動 車を設立。翌年社名を日東自動車に変更し、同時に朝日ツーリング、橘自動車商会、虎屋自動車商会、出雲自動車、日吉自動車商会、松葉自動車商会の六社を吸 収併合するのだった。そして一大転機は、第二次世界大戦が勃発した翌年の昭和十五年だ。戦時体制化の中で、政府は保有三十台以上の事業者を認めない方針が 出され、これに呼応するように大量増車と積極的な買収策を平行して、飛躍的な規模を拡大するのである。更に従来のハイヤー営業に加えて、タクシー営業を開 始した。昭和十八年には認可台数が四百十台までになっていた。昭和十九年には都内のハイヤー・タクシー車両四千五百台を、各千台ずつ四社に統合する東京都 内旅客自動車運送事業統合要綱が発表され、秋蔵氏は統合の新会社設立に着手するのである。

●終生の恩人・五島慶太

昭 和二十年七月には十二社による共同経営が開始され、八月十五日に終戦。そして十一月三十日に共同経営を終了。さらに十二月一日に認可台数千五百二十二台、 戦禍で実働できた車両数は百三十台であったが、日本自動車交通を設立して統合を完了するのであった。(十二月二十九日には日本交通に社名を変更) その時、東急電鉄の故五島慶太社長が秋蔵氏に資本譲渡したのが、秋蔵氏をして日本交通のオーナーあらしめる契機となった。

というのが、共 同経営の十二社のうち、大半が東急電鉄の五島慶太氏が実質的に支配、経営している東京タクシーに株式を譲渡してしまい、秋蔵氏も半分の株を譲渡していた状 況にあった。そして日本自動車交通を設立する際に資本の集中排除法が出来たことで、「五島は、『これは君にあげよう』と言って、日本自動車交通の東京タク シー側の持ち株を全部彼一人に譲ってくれた」(「くるま人生川鍋秋蔵」小田嶽夫著より)

 そのことで日本交通の実質支配者の地位に。秋蔵氏四十六歳であった。秋蔵氏が、五島を終生の恩人として敬愛し続けたのはいうまでもない。

●日本交通王国への道
昭和二十年十二月二十九日に日本自動車交通から社名変更し、日本交通に。翌昭和二十一年一月一日には天皇の人間宣言がなされ、その十日後には早くも営業開始届を提出している。まだ、戦後の混乱の真っ只中で、秋蔵氏は日本交通として事業に邁進するのだった。

昭 和二十二年には、自動車行政が内務省から運輸省に移管されたほか、タクシーのメーター制が復活し、道路交通法が十一月に、道路運送法が十二月にそれぞれ公 布され、翌年に施行されている。そして二十二年五月三日に新憲法が施行されているが、その二か月後に秋蔵氏は、故郷の母校になるさいたま市の宮原小学校に 豪勢かつ律儀にも、プールを寄贈しているのだった。秋蔵氏の実業家としての成功ぶりをうかがわせるものである。

それからは破竹の勢いで事 業規模の拡大と充実に取り組み、戦後数年で事業基盤を固めたことが分かる。それは、昭和二十五年に秋蔵氏は単身アメリカに渡り自動車産業の有り様を視察 し、ハイヤー業の衰退と無線タクシーの普及など、先駆的な取り組みを他社に率先するのだった。この渡米記を元に秋蔵氏は、自伝「流れる銀星」(著者川鍋秋 蔵、発行所交友社、定価百円、昭和二十六年十二月二十日印刷)をモノするのである。そして日本交通創業十五年目になる昭和三十六年には、ハイヤー・タク シー千四百台で都内シェアの約一割を占めるとともにバス五百台の規模に達し、日本最大規模のハイヤー・タクシー事業者にのし上がっている。一朗氏が復活を 宣言しているエクセレントカンパニーの土台が、すでにこの時点で構築されているのだった。

●未完の反省
秋蔵氏は「流れる銀星」の締めくくりに、次のような一文を寄せている。

「わ たしの戦後における基礎工事は、まずまず円滑に完成していった。いまわたしの頭の中には一つの征服感に対する喜びと、感激がうずいている。そしてこれは人 間として、事業家としての未完成なるものへの征服でもあった。あのすべての廃墟の、敗戦の痛手の中で、だれがこのように復興すると予言しえたであろうか。 自分自身への征服、自分自身を理想どおりに統御することのできる人間になることが、事業家としての最高の要素であるとわたしはいいたい」

秋蔵氏、五十二歳。脂の乗り切った自信に満ち溢れた文章をしたため、その上で七項目の「わたしの信条」を示している。その七項目のうち三項目を次に紹介する。

・人間の進歩には限度がない。自分の能力を過少評価して、行きづまるべきではない。こういった考え方をつきつめると、自分の能力を過大評価して失敗するのと同じである。

・エライとか、できるとかいわれる人は多いが、わたしはこの言葉に疑問を持っている。だれがエライ、あるいはできるといっているか、そこには問題がある。その人間の周囲にいる大衆が認めているのでなくては、本当のエラサではないと思う。

・ 職場で、なくてはならぬ人間になりたい。地位とか報酬はそれにおのずと付随するものである。金を儲けようという意識があっては、事業は成功しない。事業を 手堅く発展させようと努力していると、金もそれにともなうものである。金もうけ根性は人間を小さくさせる。そして事業をも小さくさせるものである。

●自分は何をすべきか?

一朗氏が「タクシー王子、東京を往く」を執筆した三十七歳の時の記述がこれだ。
  「いま私は三十七歳。少なくとも父親が亡くなった六十七歳までは社長を務めるとして、あと三十年。その三十年間、長期的、持続的な成長を遂げるために、い ま自分は何をすべきか?」と問い、「次の三十年を見据え、三代目の自分に、いま一番必要なものはなにか? それはおそらく、現場感覚。ハンドルを握った最 前線での経験だろう」と結論付けて、「いまこそ、タクシーに乗ろう」と宣言していた。

  「私はなぜタクシーに乗るのか」の項で、「オー ナー経営者の先輩から『オマエ乗らないの?』っていわれて・・・」と述懐している。社内情報では、一朗氏にタクシー乗務を勧めたのは、エムケイのオーナー である青木定雄氏であったという。一朗氏と青木定雄氏の接点は、東京エムケイの社長を務める次男・政明氏との交友関係に端を発している。政明氏とは経営セ ミナーへ共に講師として出席する機会があって親密になっていった。東京エムケイ、日本交通、両社の明け番集会に出席しあうほどであった。


エ ムケイの青木氏に勧められてタクシーに乗ったことをウンヌンするつもりはさらさらない。ウンヌンしたいのは、タクシー会社の社長がタクシー乗務をすること を特別のことと受け止めていることだ。そのことは、たった一か月間乗務しただけで一冊の本を作成していることと、その内容を読むと明らかだ。全国でも千台 以上を保有している大手でも、タクシー乗務を経験している経営者は枚挙に暇がないくらいいる。もちろん一か月間などという短期間の向きは皆無だ。それと も、自分は特別な存在とでも思っているのだろうか。起業するまでの十年間、ハンドルを握り続けた創業者の秋蔵氏に対する畏敬の念を抱いているのなら、なお さらであろう。

●俺の正義はこれだ!
秋蔵氏は逆風をバネに事業を拡大してきた。一朗氏も逆風 の真っ只中にいる。これをバネに事業の継続、発展ができるのか。一朗氏は自著で、「私の心の拠り所になったのが、家族、中でも母親の存在だった。日本交通 の川鍋家の奥さんである母の生活を守る。<俺の正義はこれだ。人間として、それは決して間違っていない>」と記している。

氏の母方 の祖母の故広瀬櫻子さんは、藤山コンツェルンの創始者である故藤山雷太氏の次女として、明治四十三年に生まれている。昭和十年に実業家の広瀬次郎氏と結婚 して、一朗氏の母親である為宇さんが誕生する。氏は、「もし母がいなかったら、あの怒涛の日々は乗り切れなかった」と述懐。氏は父方を「“公”の部分を形 作っている」と表現し、母方の家系を「“私”の部分で、私の人間形成に大きな影響を与えている」としている。創業者秋蔵氏に無く、一朗氏に持って生まれて 備わっているもの。

それは何か? 

一朗氏にも強い味方になる日本の支配層に食い込んでいる、華麗なる閨閥なのである。この閨閥は水面下の見えない部分で、一朗氏を下支えしているようにもみえる。
次回、十月十日付第百三十一号で詳細を明らかにする。

日本交通の栄光と挫折・川鍋一朗研究 No.4

編集長の道草

連載特集:日本交通の栄光と挫折・川鍋一朗研究 No.4

日本交通王国の創業者はヒヨッコだった
梁瀬自動車の見習い運転手から羽ばたく

【タクシージャパン No.129号(09.9.10日号)より転載】

前 回は、川鍋一朗氏が会社入りする二年も前から、会社は黒字を計上していたことを明らかにした。氏が利益の上がる会社にしたのではなく、利益の上がる会社に 氏が入ったのであった。その会社の礎は、創業者の秋蔵氏が築き上げたもので、秋蔵氏あっての今日の氏であり日本交通である、と論じた。

また、氏は社長就任後に社訓を策定し、「エクセレントカンパニー宣言」を行なったことも紹介した。氏のいうエクセレントカンパニーの具現者は、他ならぬ秋蔵氏である。換言すれば、敬愛してやまぬ秋蔵氏の築き上げた日本交通王国の再興を、宣言しているのである。

エクセレントカンパニー実現のためには、越えなければならない幾多のハードルがある。その幾多のハードルをクリアー出来た時に初めて、氏がエクセレントな経営者だと評価されるだろう。

そ のために克服しなければならないハードルとは何か? それは稿を改めるとして、エクセレントカンパニーの具現者である秋蔵氏とは、いかなる人物だったのか に触れなければならない。本稿では、秋蔵氏の出自から自動車人生の出発点である梁瀬自動車商会に運転手として入社し、いよいよ自動車人生のスタートを切る ところまでを振り返る。(文責=高橋正信)


●九人兄弟の五番目
秋蔵氏は、明治三十二年八月に埼玉県宮原村(現さいたま市)にて父川鍋熊太郎、母たよとの間で九人兄弟の五番目として生まれた。父親は徒弟制度の大工修行を済ませたが、大工稼業では収入が少なく、大宮駅近くの機関車や列車をつくる国鉄大宮工機部の工員となった。

酒 も飲まず、煙草も嗜まず、真面目一筋の仕事人間で堅物だった父親は、秋蔵氏が学校にあがるころには、職場長になっていた。しかし、職場長とはいえ月給は二 十円ぐらいであった。いまの物価水準との単純比較は出来ないが、大体二十五万円前後ぐらいの価値があったのではないかと考えられる。

貧乏 の子沢山。これで九人の子供を含めた十一人の大家族を切り盛りしなければならないのは、一苦労である。台所と湯殿を除くと部屋が二つしかなく、小さい子供 たちは三人で一つの寝床に固まって寝るような、かやぶき屋根の粗末な住居だった。父親と母親との「克己、倹約がどうしても必要なのであった」と芥川賞作家 の小田嶽夫氏が著した「くるま人生 川鍋秋蔵」(一九六二年四月(株)アルプス発行、二百二十二ページ)に詳しい。

 父親は小学校二年ま で、母親は「女に読み書きは要らない」という時代で無学だったことから、秋蔵氏には高等小学校(当時は尋常小学六年、高等小学二年)までやってやろうと、 母親は睡眠時間を削り、家計を節約し貧乏に耐えながら八年間の教育を受けさせた。母親の人と知れない苦労に気付くと、秋蔵氏は不憫でたまらなくなり、「大 きくなったら何とか母を楽にさせてやりたい。立派な瓦屋根の家に住まわせてやりたい」と小さな胸を痛めるのであった。

●ヒヨッコになった!
高 等小学校を卒業した秋蔵氏は、父親と同じ国鉄大宮工機部で働くことになった。このころ工機部で働くものは約三千人おり、大宮近在の農家の次男、三男はこ ぞって工機部に就職するのであった。秋蔵氏も九人兄弟で男四人兄弟の末弟ということもあって、特別の思慮の無いままに工機部に入るのだった。

当時、「工員」という言葉が無く、それに当たる言葉が「職工」であった。これを地元の宮原村の百姓がもじって、「ヒヨッコ」という言葉が出来て、少年職工を茶化してそう呼んだという。

ヒ ヨッコは、工機部にある付属工業学校(四か年修業)に入り、午前中授業で午後から仕事だったが、「月給をもらいながら勉強が出来る」と両道に大いに励ん だ。そして歳月が三年、四年と経過していく中で、秋蔵氏は、①個人の能力と関係なく、学歴というものが絶対の力を持っている。大学の理工科、あるいは工学 部を出たものは、経験も浅く、技術も十分でないのに、じきに幹部級にのし上がる②(学歴のないものは)よくいって職場長になるのが関の山。それも五十五歳 になれば定年退職しなくてはならない③技能の点でも、頭脳の点でも、勤勉さの点でも、めったに人に引けを取らない自信がある。それだのに登りつめる絶頂が 職場長だとあっては幻滅だ―と「立派な技士になって外国に派遣されたい」という入社当時の夢と希望は、次第に崩れていった。

大宮工機部に入って六年目、いよいよヒヨッコが羽ばたき巣立ちの時を迎える。秋蔵氏、二十歳の春だった。

●百二十円を懐に上京
秋 蔵氏は、両親から六か月間の生活費としてもらった百二十円を懐に上京。四谷見付付近の知人宅に身を寄せるのだった。最初は東京地図を頼りにあちらこちらを 見て歩き、人間の多さや東京の大きさに驚かされた。そして一通り東京の街の知識も頭に入ると、就職活動を開始するのであった。
つてを頼り、人にも 会い、会社にも顔を出し、新聞の求人欄に目を皿のようにしてみたりして、就職口を求めたが、高等小学校卒の学歴と年齢(二十歳)がネックでどうにもならな かった。まして国鉄の大宮工機部での経験は、なんの足しにもならなかった。秋蔵氏はあせった。半年分の生活費があるのだから焦らないで就職活動を続ければ いいものを、初めて世の中に出て、いきなり壁にぶつかったのだから無理はなかった。

前述の「くるま人生 川鍋秋蔵」によると次のような記述がある。
「彼 が日本橋区(中央区)の呉服橋のそばを通りかかると、『梁瀬自動車商会』(梁瀬自動車株式会社の前身)の看板が目についた。大きなガレージがあって、自動 車がたくさんおさめられていた。(略)それから彼はつかつかと中へ入り、自動車の掃除をしている運転手らしい男をつかまえ、『運転手になりたいんですが、 使っていただけないでしょうか?』と言った」

●自動車の申し子?
あたかもそれは偶然に通りか かったかのような記述になっているが、実際は、秋蔵氏がわざわざ訪問したと考えられる。それは、二十七歳で夭逝した次兄が東京へ出て、自動車の運転手に なっていたこと、そして自動車の運転手は俸給が当時としては飛びぬけて良かったことを秋蔵氏は承知していたことによる。

立派な会社に入って、ゆくゆくは実業人になりたいという夢は、「いい会社の社員になれないなら、仕方がない。運転手になってみるのも一つの術か」と気を取り直して軌道修正したのは、自然の成り行きだった。

履歴書・戸籍謄本・学校の卒業証明書など、必要書類を整えて提出した後に、晴れて採用されるのであった。両親には大志を抱いて上京していた関係で、「いつまでも運転手をしようというわけではないのだが、ひとまずここへ落ち着きたい」といって納得してもらう。
そ れ以上に秋蔵氏が生まれた明治三十二年は、横浜在住のアメリカ人がアメリカ製電気式三輪自動車を持ってきており、日本へ初めて自動車がお目見えした記念す べき年であった。その後の自動車発展史が、そのまま秋蔵氏の自分発展史と軌を一にしていくのを見るにつけ、故秋蔵氏は自動車の申し子であったのだと納得さ せられる。

秋蔵氏にとっては、「いつまでも運転手をやっているつもりはない。立派な会社に入れないのなら、立派な会社を自分でつくって、そして実業人になる」と心に決するものがあったことを、その後のくるま人生が物語っている。

●六か月で運転手へ

秋 蔵氏が梁瀬自動車商会に入社したのは、大正八年。すでに全国で乗用車は五千台を超える普及ぶりを示していた。芝区(現港区)新桜田町の某家に間借りしなが ら、梁瀬自動車商会に通勤するのだった。当時は、自動車には必ず運転手のほかに助手が乗っていて、運転手は運転だけ、あとはすべて助手がフォローした。そ して運転の仕方などは誰も教えてくれないために、見よう見まねで学びとっていかねばならなかった。

秋蔵氏は、呑み込みが早く手も器用だっ たが、梁瀬自動車商会は六か月が過ぎるまで運転手にさせなかった。それでも他の助手連中に比べては早い方だった。当時の運転手の免状は、至極簡単だったと いう。ビュイックの車に乗って、皇居前の広場をひと回りして見せれば、検査が終了したとか。ともかく目出度く運転手の仲間入り果たし、くるま人生のスター トを切るのだった。

まだ、自動車が珍しい時代で、自動車を運転する運転手はハイカラな職業として、市井の人々の羨望の的になっていた。当 時、上流階級の女性と浮名を流す者やお酒と結婚したような、飲んだくれ者の多い運転手仲間の中で、秋蔵氏は一線を画し、酒も飲まずに仕事に精励したのは言 うまでもない。それからわずか二か月で、大きな転機を迎えるのであった。

●川崎造船所へ移籍

神 戸に本社を置く川崎造船所東京出張所に、自動車が一台売れた。その時、川崎造船所からの条件が、信用のおける運転手を一人つけてくれるように、というも の。そこで梁瀬自動車商会では、勤務態度良好な秋蔵氏を社に置きたい考えがあったが、上顧客(じょうとくい)の信用を得ることも大切、との判断で秋蔵氏の 移籍を決めるのだった。

千代田区にあった日本郵船ビル内の川崎造船所東京出張所へ通う身となった秋蔵氏は、社長付運転手という栄えある役目につくのである。このことが、後年の実業人へのステップアップに計り知れない影響を与えることになるとは、もちろん知る由もなかった。

  秋蔵氏が担当したのは、川崎造船所社長の松方幸次郎である。父親は、明治時代に総理大臣を二度、大蔵大臣を七度務めたのちに元老になった松方正義である。 松方幸次郎は正義の十三男六女の第三男であった。東京帝国大学を中退し、アメリカのエール大学、フランスのソルボンヌ大学に学んだ。

 も ちろん松方幸次郎は実業家として大を為すのだが、それよりも今日、「松方コレクション」の人として名をはせている。松方コレクションは周知のとおり、ヨー ロッパの名だたる絵画や彫刻のほか、日本の江戸時代の浮世絵などの厖大な美術品の蒐集である。上野公園内の「国立西洋美術館」は、今から五十年前に戦後フ ランス政府によって接収されていた松方コレクションが日本に返還されるのを機に、このコレクションを収蔵するために近代建築の三大巨匠の一人であるフラン スの建築家ル・コルビュジェの基本設計により、建設されたものである。

オーギュスト・ロダンの「考える人」やクロード・モネの「睡蓮」、 ドラクロワ、クールベ、ミレー、マネ、ルノワール、セザンヌ、ゴッホなどなどの作品群が松方コレクションに名を連ねる。国立西洋美術館の建物が建設後五十 年ということを記念して、この美術館を世界遺産にしようというキャンペーンが目下、有識者らで展開されている。

●独立への時宜を得る

秋蔵氏が川崎造船所に移籍したとき、松方幸次郎は五十五歳だった。ちょうど松方コレクションに着手しはじめる頃にあたっていた。松方幸次郎と交流があった美術史家の八代幸雄は、松方幸次郎から直接聞いた話を、次のように文章に残している。

 「自分は第一次の世界大戦のために、自分がやっている川崎造船所が非常に好景気で、私が自由に使える金が三千万円できた。私は、それだけ油絵を買って帰って、日本のために立派なコレクションを作ってやりたい」

当 時の三千万円は、いまの金に換算すると約三千億円に充当する、莫大の金額であった。その松方幸次郎の専属運転手を、秋蔵氏が担当したのであった。秋蔵氏の 精励振りを気に入っていた松方幸次郎は、秋蔵氏が運転した日には必ずチップとして十円紙幣を握らせた。十円といえばいまのお金で約十万円。また、松方幸次 郎を新橋あたりの待合(茶屋)に運んだ場合には、待合が運転手にチップを一円出すのが相場だったが、松方幸次郎が超大物ということで秋蔵氏には二円のチッ プが支払われたという。月給が四十五円で、その他にチップの収入などを合わせると百円以上の収入があり、父母に十五円、自分の生活費に三十円を使うほかは すべて貯蓄に回し、来るべき独立に邁進するのであった。

 この後、川鍋自動車商会設立して独立をはたすまでには、不測の事態に痛めつけられたり、魑魅魍魎に翻弄されて一文無しの悲哀を経験するなど、幾多の試練を経なければならなかった。この続きは次回九月二十五日付第百三十号に委ねる。

日本交通の栄光と挫折・川鍋一朗研究 No.3

編集長の道草

連載特集:日本交通の栄光と挫折・川鍋一朗研究 No.3

後世に徳を残す。では、前世と現世は?
社長就任の翌春には六本木ヒルズ族入り

【タクシージャパン No.128号(09.8.25日号)より転載】

前回は、川鍋一朗氏が二〇〇〇年に日本交通入りする以前から資産や子会社を売却して、債務圧縮が進められてきたことに言及した。

本 稿では、入社する以前に、氏はすでにそのことを察知していて、「不調の予兆を」感じていたこと。そして氏は、「一千九百億円の債務がある会社を、経営改革 を断行して利益の上がる会社にした」との文脈で、一般マスコミに数多く露出してきた。しかし、それは事実に反すること。氏が、「利益の上がる会社にした」 のではなく、「利益の上がる会社に」氏が入ったのが実態であったことを明らかにしたい。
筆者はなぜ、そのことにこだわるのか。それは、氏が会社入りして、「利益の上がる会社にした」ことと「利益の上がっている会社に」氏が入社したというのでは、氏の経営者としての評価が大きく異なるからに他ならない。

そ れはともかく、故達朗氏の時代に惹起したバブル投資の失敗による膨大な債務を抱えてなお、日本交通が消滅せずに存続し得たのは、ハイヤー・タクシーという 本業での強固な地盤が確立されていたからではなかったか。ひるがえって創業者故秋蔵氏の功績、遺徳あっての今日の氏であり、日本交通といえよう。(文責= 高橋正信)


●非常にコンサバティブ
 それは、日本交通入りする前年の一九 九九年であった。川鍋一朗氏が勤務している経営コンサルタント会社であるマッキンゼーの先輩から、一枚の新聞記事を見せられた。内容は、野村証券グループ が出資する投資ファンドのJAFCOを使って、日本交通の関連会社をMBO(マネジメント・バイ・アウト)する、というものだった。MBOとは、企業の合 併・買収(M&A)手法の一つで、商権や従業員の雇用を守り、企業が子会社を手放すときに活用する手法である。

 氏はこの新聞記 事を見て、「うちの会社は非常にコンサバティブ(保守的)なので、よほどのピンチにならないとそんなことはしない」とピンときた。不調の予兆を感じた瞬間 だった。同時に、経営変革への気分も沸いて日本交通入りするのか、しないのかで逡巡するのだが、結局、氏は日本交通入りするのだった。

 「いつか日本交通の社長になると思っていた。というか、そう思い込まされる雰囲気が作られていた。他に興味が行くこともなく、ビジネススクールやマッキンゼーに行ったのも、日本交通に入るためだった」

 あるインタビューでそう振り返っている。一方、本連載企画第一回では、「コ
ンサルタントとして生計を立てられるとは思えず」に日本交通入りしたと紹介した。この二つのコメントは矛盾する。が、しかし、そこには、二十九歳の青年の揺れる思いが見て取れる。

●入社の二年前から黒字

 
いよいよ本題に入る。
  氏が日本交通入りしたのが二〇〇〇年。その時期に充当するのは、第八四期決算(一九九九年六月~二〇〇〇年五月期)である。結果は、売上三百七十二億七千 五百万円で経常利益一億五千五百万円、当期利益も同額で黒字を計上していた。氏は、この期の途中に入社し、しかも「一年間、完全に干された」状態。当然、 決算に影響、関与していない。

そして、日本交通単体の経営収支が赤字から黒字に転化したのは、氏が入社する前年の第八十三期(一九九八年 六月~一九九九五月期)に端を発しているのである。氏が入社する二年前から日本交通は、バブル投資のツケを特別損失として計上しながらも、単体の決算で黒 字に転化させている。
 そして第八十五期(二〇〇〇年六月~二〇〇一年五月期)は、氏が日交マイクルの事業を開始した二〇〇〇年七月と時を同じくしている。日交マイクルは、毎月一千万円の赤字を垂れ流していくのだが、この期の決算では当期利益一億九千八百八十九万円を計上している。

  さらにメインバンクから債務返済計画を突きつけられた(二〇〇一年七月)第八十六期(二〇〇一年六月~二〇〇二年五月期)でも、当期利益三千六百万円を確 保している。第八十七期(二〇〇二年六月~二〇〇三年五月期)の当期利益は四千四百六十九万円。結局、採算割れを続けて立ち上がらないままの事業として、 日交マイクルを日本交通本体に吸収させた第八十八期(二〇〇三年六月~二〇〇四年五月期)の当期利益は、三億九千七百十六万円である。

 その翌年の二〇〇五年八月に氏は日本交通の社長に就任するのである。その第八十九期(二〇〇四年六月~二〇〇五年五月期)の決算内容につき氏は、「税引き前で十一億円の利益を計上できた」と胸を張ってコメントしている。(当期利益は五億八千七百十六万円)

 上記のとおり、日本交通は一九九八年六月から黒字を継続している。その途中には、本欄第一回で「ベンチャー企業の社長だったら十回は首になっています」と、氏が述懐した日交マイクルの数億円の累積赤字が処理されてなお、黒字を確保し続けているのである。

●百人のリストラ
 第八十六期(二〇〇一年六月~)にメインバンクから突きつけられた債務返済計画を遂行する中で、百人の役職・管理者を馘首した。その当時のことを氏は次のように語る。

  「私がやるしかないと覚悟して、リストラをしました。百人リストラしたうち、五十人は私自身が面接して首を切りました。でもリーダーの心構えとして、やら ざるを得ないし、やるしかありませんでした。年収五百万円程度で二十年以上働いた人が職を失うのは、年収二千万円の人の給与を一千万円にするのとは重みが 違います。個人個人のことを考えたら、体が持ちません。とにかく一生懸命やってきた」

 確かに日本交通を生活の基盤として、長年働いてき た役職・管理者を馘首するのは、心情として忍びないことであったろうことは、想像に難くない。が、しかし、それ以上に馘首される側はより深刻であったろ う。当時を知る元管理職のA氏は、「当時の社内の空気はぴりぴりしていて、殺気立っていた感じです。ある幹部の送別会の席上で、酔ったその送別される方 が、出席していた川鍋一朗氏に面と向かって罵声を浴びせかけたのを見たことがある。それは強烈な罵詈雑言であった」と語っていた。

 氏が、「個人個人のことを考えたら体が持ちません」というのは実感であろうし、日本交通が生き残れるかどうかの正念場であり、修羅場であったといえる。

  とはいえ、氏がいう百人のリストラは、百人×年収五百万円=年間五億円の経費削減効果を生む。これは直接経費といえ、その他の経費を総合するとさらに削減 効果は増大すると考えられる。社長就任後の決算で「税引き後で十一億円の利益を・・・」と胸を張ってコメントしている過半の利益は、百人に及ぶ馘首された 血の犠牲によって計上されたものであることを、忘れてはいけない。

 さらにいえば、馘首された百人の役職・管理者にしてみれば、日交マイ クルの失敗による数億円の損失を惹起した氏こそ、百人の役職・管理者をリストラする前に馘首されるべきだと言いたいであろう。そうはならずに氏が、日本交 通の社長として存在し得たのは、とりもなおさず氏が創業者故秋蔵氏の孫であったこと以外に、その理由は見当たらない。

●六本木ヒルズ族入り
二〇〇五年は氏にとって特別の年となった。
前 年に日交マイクルを本体に経営統合し、一般ハイヤー・タクシー部門に吸収した。そして二〇〇五年には、前述したように日交総本社やグリーンクラブを法的整 理している。この年に氏は、バブル期の負の遺産の処理終結を宣言している。同時に四月には、東洋交通を皮切りに他資本との業務提携を開始し、矢継ぎ早に提 携先を拡大していくのであった。資産、子会社の売り尽くし清算、百人に及ぶリストラなどネガティブ要因の処理を終えたことで、いわば反転攻勢に打って出よ うとしたことが見て取れる。

この時に打ち出したのが提携会社十社、グループ全体でタクシー五千台保有をめざす五か年構想であり、エクセレントカンパニー(超優良企業)宣言であった。その狙いは、ズバリ業界をリードする盟主の地位に、復権を果たすことに他ならない。

そ して八月三十日に氏は、日本交通の第三代社長に就任する。氏に社長を譲った父親の故達朗氏は、それを見届けるように翌三十一日未明、下咽頭がんで死去。享 年六十七歳だった。父親について氏は、「経営者としては、先代の路線を引き継ぎ、グループの拡張を続け、不動産などにも投資をしていくことになる。それが 会社の危機を引き起こすことにつながるのだが、バブルという時代背景のことを考えれば、一概に責めることはできない」と自著でかばっている。一方で入社当 時を振り返って、「こんな会社に誰がした。最終的には父親に責任がある、と思った」と正直な心情も公にしたことがあった。

それはともかく、心機一転、住まいを都内港区の高級賃貸マンションのアークタワーズから、六本木ヒルズレジデンスD棟に移転することにして、翌春に晴れてヒルズ族の仲間入りをしている。

●シャゼ・シャクン

氏は社長就任に伴って、会社の社是・社訓を策定している。

 社是「徳を残そう」
 桜にN、日本交通に集う私達は、誇りを持って働き、高い業績を上げ、物心両面の幸せを実現して更に誇りを持って働き、以って仕事を通して後世に「徳」を残すことを、その経営理念といたします。

 社訓「エクセレントカンパニー宣言」
一、 エクセレントカンパニー、品格の高い超優良企業を目指します。
一、 お客様第一主義を貫き、安全・遵法・品質・環境を究めます。
一、 正しいやり方で、長期的に、利益の絶対額を最大化します。
一、 日交のプライドを胸に、全員一丸となって横綱相撲で勝負します。
一、 桜にN、圧倒的なNO.一ブランドとして、リーダーシップを発揮します。

  まず、社是の説明文章を何回も読み返した。ワンセンテンスに「誇りを持って働き」が二回も出てくるのはご愛嬌としても、「徳」という文字の意味は深い。辞 書をひも解くと次のように解説してあった。①道をさとった立派な行為②善い行いをする性格、身につけた品性③人を感化する人格の力。めぐみ。神仏の加護 ④(得の通用字として)利益、もうけ、富―とある。「会社の経営上の方針、主張。または、それを表す言葉」が社是ということであれば、この社是の主張の意 味するところは深い。 少なくとも「得」の通用字としての「徳」ではなさそうである。

 社訓のエクセレントカンパニーの意味は、ズバリ超 優良企業。それに品格の高さが加わる。この社訓は一言で、「顧客第一主義で品格の高い超優良企業として利益の絶対額の最大化を図り、業界ナンバーワンをめ ざす」と表現している。少々、欲張りでハイテンションなのは、きっと資産・会社整理、リストラと続いたネガティブ対応から解き放たれたためなのであろう。

●故達朗氏のこと
  氏が言うところのエクセレントカンパニー=超優良企業の具現者は、他ならない創業者故秋蔵氏である。裸一貫で埼玉県宮原村を後にして、一代で日本を代表す る日本交通グループを築き上げた。その長男が故達朗氏だ。氏が父故達朗氏を評して、「人間的には優しく、気さくで、すべての人を平等に扱ったそうだ。林専 務などは父に怒られた記憶がない」と語っている。

 筆者も故秋蔵氏が死去した後、赤坂の旧本社社長室で社長に就任した故達朗氏に面談する機会を得たときの印象は、ほぼ同じである。威張ったそぶりは微塵も無く、むしろリーディングカンパニーのトップとは思えないほどの物腰の低さ。そして忘れられないのが次の言葉だった。

 「広く意見を聞いて民主的な経営を心がけたい」

  おそらく故秋蔵氏が超ワンマンだったために、その弊害を感じていた反動で、「民主的な経営」という言葉が出たものと、その当時は理解した。この「民主的な 経営」も、「ホワイトカラーからの評判はとてもよかったのだが、ちょっとシャイな一面もあって、営業所に顔を出して話しをするようなことはほとんどしな かったから、運転手たちからの人気はいまひとつだった」と氏が振り返っている。

 また、氏が「バブルという時代背景のことを・・・」と故 達朗氏の経営責任をかばっているのだが、確かに当時の銀行や銀行と結託した建設業者らの口車は、犯罪行為に近いといえる。だとしても故達朗氏の人の良さが あだになって、これらのバブルに群がる亡者の口車に乗ったのだとしても、その責任は免れられるものではない。結果的にそのツケは氏に払わされることになっ た。

 イッツ エクセレント それは、創業者故秋蔵氏。




氏が取り組もうとしているのは、故秋蔵氏が築きあげた日本交通王国の再興である。その意味では、二〇〇五年は氏にとって第二次創業に取り組もうとする、その気分の高ぶりと意気込みが鮮明に垣間見える。

次号では、日本交通王国が故秋蔵氏によってどのように事業として立ち上げられ、そして業界内で確固とした地歩を固めていったか、故秋蔵氏の出自からその経緯を振り返る。

連載特集:日本交通の栄光と挫折・川鍋一朗研究 No.2

編集長の道草

連載特集:日本交通の栄光と挫折・川鍋一朗研究 No.2

見習いがいきなり飛行機の操縦桿を握る
資産・子会社売り尽くす怒涛の撤退作戦

【タクシージャパン No.127号(09.8.10日号)より転載】


前回は、齢二十九の川鍋一朗氏がコンサルタントから転身し、二〇〇〇年に日本交通入りしたところから稿を起した。

  本稿では、創業者で氏の祖父である故川鍋秋蔵氏により屹立した日本交通王国が、父の故達郎氏の時代に瓦解する。それを氏はどのように受け止めて、行動した のか。その結果、何を失い、何を得たのか。債務総額一千九百億円という数字が一人歩きしているが、実際の債務は、筆者の記憶からもそれを上回る金額だった のではなかったか。そしてその債務は一体、どのように処理されたのか。

氏が「怒涛の日々・・・」と振り返った、債務処理の全貌に迫る。(文責=高橋正信)


●入社後一年七か月
  川鍋一朗氏が日交マイクルをスタートさせて一年。取締役として日本交通入りしてから、一年七か月が経過した二〇〇一年の夏のことである。突然、故達朗社長 ら経営幹部ともども、メインバンクに呼び出された。用件は、グループが抱える債務処理の返済計画だった。メインバンクは、故達郎氏ら経営陣に対してかなり 強圧的だったといわれ、返済計画への返答に一週間の猶予すら与えなかった。すでにメインバンクの腹は固まっていたのだ。それを察知した故達朗社長は、「致 し方ない」、他の役員も「(銀行に)あそこまでいわれたら・・・」と二つ返事で受け入れざるを得なかった。

 これに対して氏は、「まだ、 一回目(の会議)なのに・・・」と寝耳に水で驚きを隠せなかったが、すぐにメインバンクが提示した債務返済計画を受け入れる以外に、現経営陣に残された選 択肢がないことに気づく。「飛行機の操縦士も副操縦士も、完全にやる気を失って操縦桿から手を離してしまった。これまで後ろで見習いをしていた私が、いき なりそこで操縦桿を握ることになってしまった。どうやって動くのかも良く分からないで・・・」と自嘲ぎみに語る氏にとって、晴天の霹靂、怒涛の日々の幕開 けとなるのであった。

●本社ビル売却が基点
 氏の著書「タクシー王子、東京を往く。」(文芸春秋社発行)によると、「一〇〇件以上の不動産や、三〇にも及ぶグループ会社の大半を売却。赤坂の一等地にあった本社自社ビルを売却し、祖父の代から親しんだ麻布の自宅さえ手放した」と記している。

氏のいう怒涛の日々は、都内港区赤坂の一等地にある自社所有の本社ビルを売却すると社内告知した、二〇〇一年八月一日を基点とする。

こ の本社ビルの写真をご覧いただきたい。隣が、本社ビルの三倍はあろうかというハイヤー営業所と車庫ビルだ。隣のハイヤー営業所ビルも本社ビルと一緒に売却 したのである。その売却先が、オリックスであった。オーナーの宮内義彦氏は、時の小泉政権と深くかかわり、総理の諮問機関である総合規制改革会議の議長を 務めた人物である。グローバルスタンダード、構造改革を声高に、産業界全般の規制緩和を推進した。同時に自社のオリックスがその規制緩和の先頭に立ち事業 拡大を図ったことで、「現代の政商」と揶揄されることとなった。 

タクシー事業も宮内氏らによって、ご多分にもれず二〇〇二年に規制緩和 され、業界は超供給過剰と運賃の値下げスパイラルに見舞われ、今日まで色を失い続けるのであった。一方でタクシー業界に追い打ちをかけるように、レンタ カーを規制緩和して大々的な事業展開をしていった。日本交通の本社跡地に建設されたオリックスのビルを眺めていると、それらが想起され感慨深いものがあ る。

●一等地の自宅も売却

さ らに都内港区元麻布にあった自宅だ。創業者故秋蔵氏が存命中は、年に一回恒例で都内業界幹部らを一堂に会して、自宅庭園でつつじを見る会が催されてきた。 また、外務省を通じた外国の賓客を、日本家屋の良さを知ってもらうために自宅に招いた。そんなことが当たり前のようにできる敷地が、実に五〇〇〇坪の大邸 宅であり、日本家屋の粋を極めたものであった。筆者も故秋蔵氏の通夜の折に訪れたことがあったが、門を入って母屋にたどり着くまでに、結構な距離を歩いた 記憶と、素晴らしい庭園だったという印象が今も強く残っている。

氏も、「麻布にあった自宅も、ゴルフの会員権も、売れるものは何もかも売 るという悲惨な状況に陥った。とても切なかった」と残念がったが、残念がるだけの価値のある邸宅であった。今でもこの界隈の土地は、坪五百万円~八百万円 で売りに出されている。敷地が五千坪ということになると、ざっと二百五十億円から四百億円という、とんでもない金額になる。

とはいえこの 自宅は、故秋蔵氏の時代にすでに相続税対策として、法人の所有になっていたようだ。一九八三年に亡くなった故秋蔵氏の相続財産が麻布税務署で公示され、取 材した時に、その額が想像をはるかに下回る二十数億円ということで、目を疑って何度も告示板を眺めていたことを記憶している。

●これだけあった子会社
そ の他にもサテライトホテル後楽園と同ヨコハマ。私事だが横浜中華街付近にあったサテライトホテルヨコハマには、家族連れで宿泊したこともあった。ホテルと いえば都内品川区・港区芝浦のJR田町駅近くで、一九九六年に総額百四十億円を投じた「特徴ある都市型高品位複合ホテル」としてニューサテライトホテル芝 浦を竣工した。このホテルは、バブル期に建設計画が立案されたものであった。現在の林紀孝専務取締役が故達朗社長存命中の秘書課長時代に、このホテル建設 計画を取材したことがある。

筆者が、「いまからホテルを建設しても採算が合うはずは無い」と指摘したところ、林氏は、「すでに計画は進行 中で止められない。止めた場合、違約金が発生する」とのことだったが、重ねて「違約金が発生してもこれからの赤字を考えると計画を中止すべき」と忠言し た。これに林氏は、「そうは言っても違約金が建設総額と同じだけかかるので中止できない」とのことだった。結局、このホテルは赤字を出し続け、竣工四年後 の二〇〇〇年に日本航空に譲渡され、「ホテルJALシティ田町」へと衣替えするのだった。

その他に氏が指摘するように、自動車教習所や石油販売、さらにゴルフ場に不動産管理会社や年商百二十億円(二〇〇二年五月期)あったヘリコプター事業など、数え上げたら枚挙に暇がないぐらい、というよりも子会社すべてを売却ないし法的に清算した。
い ま、日本交通グループと呼べるのは、別法人で日本交通小田原、同立川、同埼玉のタクシー事業三社と車両運行管理請負業の日交サービス、それにクルマ辺以外 の日交データーサービスの計五社のみになった。(東洋交通は二〇〇七年に蔦交通は二〇〇八年にそれぞれ買収して経営傘下に収めている)

●返済は一千三百億円?
前号でも触れたように一千九百億円の債務は、氏が会社入りした一年七か月後の二〇〇一年七月に、メインバンクから提示された債務総額だった。

そして子会社や資産を売却して一千三百億円前後を返済し、そして六百億円前後を法的な特別清算でチャラにしたのである。ここに民間調査機関のニュースリリースの抜粋がある。

「(株) リバティーエステート(旧・(株)日交総本社、品川区八潮三-二-三十四、設立平成十四年五月、資本金六千三百八十万円、小野紘一清算人)は、二〇〇五年 十一月三十日開催の株主総会で解散を決議、東京地裁に特別清算手続を申し立て、二〇〇六年一月十日開始決定された。負債は約三百九十七億円。同社はタク シー・ハイヤー大手の日本交通(株)(品川区)及び同グループが所有する不動産管理を目的に昭和五十九年に設立された旧・日交総本社を母体とし、日本交通 を主たるテナントとして不動産管理業を展開。バブル期には所有不動産の再開発やホテルの経営など積極的な不動産投資を行った。しかし、バブル崩壊に伴う不 動産市況低迷により多額の有利子負債が経営の重荷となり、二〇〇二年五月グループ内で業態の重なる日本交通グループ会社の日交興業(株)、(株)ナベック スと合併し、本社物件などの管理業務に特化する新たな(株)日交総本社として法人化されていた」

旧日交総本社が特別清算手続きを申し立て た二〇〇五年九月九日には、子会社で千葉夷隅ゴルフクラブと那須黒羽ゴルフクラブを運営する株式会社グリーンクラブが、東京地裁に民事再生手続き開始を申 請して、保全命令を受けている。負債総額は、債権者三千五百四十四人に対して百二億一千三百万円。民事再生条件が、預託金の九五%カット、残り五%を五年 間かけて均等分割払いするという厳しい内容だった。その後、同社は第三者に売却されている。

上記からうかがえるのは、メインバンクから提示された一千九百億円の債務は、もてる資産や子会社を処分しても賄えない債務超過の実態にあり、その部分を法的に処理したということのようだ。

●以前から資産を売却

氏 の評価である、「一千九百億円の債務がある会社を、黒タクの導入や専用乗り場を設置して、経営改革を断行、利益の上がる会社にした」という文脈は、少し修 正を加えなければならない。即ち、一千九百億円の債務は、氏が会社入りした一年七か月後の二〇〇一年七月時点の数字で、子会社や資産を売却したあと法的な 清算、処理を行った金額ということになる。

メインバンクが債務返済計画を提示する以前から、資産売却は進められていた。その額は不明だ が、多くの不動産を売却したのは想像に難くない。前述した「ニューサテライトホテル芝浦」もそうだが、その他にも次のような例があった。メインバンクの返 済計画が提示される半年も前に、持分比率十二%ある山王パークタワーを三菱地所に売却しているが、売却代金が二百四十億円で持分比率から割り出すと二十八 億八千万円になり、有力な資産にも手を加えてきていることが分かる。

「黒タクの導入や専用乗り場を設置して、経営改革を断行」したとい う。確かに役員や管理職の人員整理を行なったのは事実である。しかし、氏が、「利益の上がる会社にした」というのは事実に反する。にわかに信じられないだ ろうが、日本交通は氏が会社入りする前からも黒字を続けており、氏が会社入りしたのち、日交マイクルを立ち上げ整理し数億円の赤字を飲み込んで、なお黒字 を継続してきたのである。恐るべしは、東京大手四社の底力だ。氏の経営手腕によって「利益の上がる会社にした」のではなく、「利益の上がる会社に氏が入っ た」に過ぎない。昨年来の大幅な売り上げの減少に見舞われて、ここからが本当の意味で利益の上がる会社にすることができるのか、という意味で氏の手腕が試 されている。

「利益の上がる会社」の実態については、すでに紙幅がつきた。詳細を次回に譲りたい。










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連載特集:東京・日本交通の栄光と挫折・川鍋一朗研究 No.1

タクシー王子の言動から見えてくるもの
それは、悪戦苦闘する等身大の青年の姿

【タクシージャパン No.126号(09.7.25日号)より転載】




大和自動車交通、日本交通、帝都自動車交通、国際自動車の東京大手四社は、大日本帝国と呼ばれ戦後のタクシー業界をリードしてきた。その四社ともバブル経済崩壊を契機に程度の差こそあれ、急速に過日の面影、面目を喪失していく。

四社の中でも国際自動車と覇を競ってきた日本交通も、ご他聞に漏れず川鍋一朗氏の父親である故達朗氏がホテル業の拡大やビル建設などの不動産投資を中心にバブル渦にはまり、一千九百億円もの債務を作ってしまったのだ。

そ して一朗氏は二〇〇〇年に二十九歳の若さで日本交通入りして、今日に至っている。その後の一朗氏の言動を振り返ってみると、巷間で取沙汰されているタク シー王子ともてはやされるイケメン青年実業家、辣腕の経営改革者とは異なる、悪戦苦闘する等身大の一人の青年の姿が浮かび上がってくる。

創業者、故秋蔵氏によって栄華を極めた日本交通王国が、事実上達朗氏の時代に瓦解した。そのあとを受けた一朗氏は、はたして王国再興を果たすことが出来るのか。その可否を日本交通の現在・過去・未来を検証する中で模索したい。(文責=高橋正信)


●コンサルからの転身
川 鍋一朗氏は、一九七〇年生まれで今年三十九歳になる。慶応大学経済学部を卒業後、ノースウエスタン大学ケロッグ経営大学院を修了し、MBA(経営学修士) を取得している。ケロッグ・スクールは、ハーバード・スタンフォード・ペンシルベニア・シカゴの各大学のビジネススクールとともに、世界的に高い評価を受 けている一つといわれる。
ケロッグ大学院

 一九九七年に帰国後、コンサルタント会社の草分けであるマッキンゼー日本支社に勤務。三年後の二〇〇〇年に日本交通入りしている。日本交通入りするまでの自らについて、氏はあるパネルディスカッションで次のように語っている。

 「私の人生は一九九九年まではほんとうに幸せでした。非常に裕福な家庭に生まれ、MBA取得・マッキンゼー入社と素晴らしい人生が開けると思っていました」

  それが一転して日本交通入りする訳だが、その時の心境について、「マッキンゼーに入って二年半ぐらいたっていて、コンサルタントとしてもいわゆるUp  or Out、昇進するかどうかという時期で、Upに行くのもかなりつらいなあと思っていました。自他共に認めるLow performerだったので (笑)。コンサルタントとして生計を立てられるとは思えず」に日本交通入りしたとの心境を明らかにしている。

●日交マイクルの失敗
  二〇〇〇年に日本交通入りした氏の感想は、①会社のバランスシートを見てビックリした。左側の資産部分も大きかったのだけど、右側の負債の方がずっと大き かった②取締役会に出席して、経理部長がその月の数字を淡々と読み上げていた。取締役の一人が本当に眠っていて驚いた③マッキンゼーにいたから、取締役会 というのは議論を戦わせてバリューを出す場だと思っていたのだが、コンサルタントとして色んな会社を見てきたが、一番ひどかった―というものであった。

  そこで氏は、取締役会の中で「こんなんではだめだ!」と出席の取締役をヒステリックに叱り飛ばしたために、「お陰で一年間、完全に干された」と振り返る。 コンサルタントの本来の任務が経営者、経営陣に対してより良い経営改善策を提示して、その上で指導、教育することにあるとすれば氏が「干された」というこ と事態が、コンサル以前の次第であったことがうかがえる。

 そこで氏は、はたと考えた。「(日本交通)本体を変革するのが難しいのなら、自分の血をもった異分子を作ろう」と。これが誕生からわずか四年で消滅する新規許可の子会社「日交マイクル」である。

●仮想現実のプラン
  日交マイクルは、二〇〇〇年七月に事業を開始した。ミニバンを用いた新型会員制ハイヤー、リムジンタクシーで、乗務員を旅行代理店や広告代理店、ホテル関 係などの他のサービス業から若い転職者(平均年齢三十四歳)を採用。動くオフィス、会議室というコンセプトで新しいハイヤー・タクシービジネスの構築を目 指したものだった。

 氏は、「論理上は完璧なビジネスプランだったのに・・・」と悔やんだが、結果は、ハイヤー・タクシー事業の要諦が何 たるかも分からないシロウト経営と揶揄され、三か月たっても半年たっても毎月一千万円単位の赤字を重ね続けた。そして日本交通の最大労組である日交労働組 合からも、「赤字経営の系列会社解消」を求められる始末であった。

大手企業から新しいハイヤー・タクシーのビジネスプランを求められたコ ンサルタントが、それなりに一生懸命に考えてプレゼンしたのはいいが、そこに働く人やマーケットの規模、性格、経営収支などの現場、現実を押さえたプラン が欠落していたために、事業として立ち上がらないまま消滅するのである。そして氏自身が奇しくも語っているように日交マイクルは、「仮想現実のビジネスプ ラン」でしかなかった。

●十回はクビに!
日交マイクルは四年間継続し、最終的には日本交通本 体に吸収されて消滅した。スタート当初から毎月一千万円単位の赤字が発生していたということは、累積では数億円の赤字にふくらんでいたと見られる。氏は、 「ベンチャー企業の社長だったら十回はクビになっています」と述懐しているが、ベンチャー企業の社長が数億円の累積赤字を計上したら、一回で破産、失脚す るのがオチではないか。
それどころか氏は、二〇〇五年に向けて、専務取締役、副社長、社長と日交マイクルの失敗が無かったかのように日本交通本体 のトップに登りつめていくのであった。常識ではあり得ない出世といえるのだが、日交マイクルの始末に労組の協力を頼み、そのことが後の経営再建にかかる労 組とのパワーバランスに微妙な影を落とす結果となった。今年の春闘時の日本交通本社前での日交労組による、これまでにない街宣活動がそれを如実に物語って いる。

日本交通のインターネット上のホームページに、日交マイクルの出自や結末が一切、触れられず消し去られているが、目に見えないところでの負の遺産は厳然として残った。

●日交・サークル?
王子本

唯一、日交マイクルに言及しているのが、昨年五月に発行した「タクシー王子、東京を往く。日本交通・三代目若社長『新人ドライバー日誌』」(川鍋一朗著、文芸春秋社発行、二〇〇八年五月三十日刊)

「アッ パークラスのサービスを主体とした日交マイクルを立ち上げる。この試みは時期尚早で失敗でしたが、この挫折をバネに、川鍋は生まれ変わる。理想主義に走り すぎていた自分を反省。泥臭くても、できることからひとつひとつ地道に変えていくことを選択したのだ。日本交通本社に戻り専務となった川鍋は、社内で徐々 に受け入れられていく」

社内で干されて日本交通本体の変革が難しいといって、自分の異分子である日交マイクルを作った。それが、数億円の 赤字を積み重ねた挙句に本体に吸収してもらった。その後に本体に帰ってきて専務になったからといって、「社内で徐々に受け入れられていく」とは考えにく い。メインバンクの了解や労組の協力、理解がなければ無理とみるのが妥当だろう。

成功体験よりも失敗体験の中にこそ多くの教訓が潜んでいるのだが、その失敗を消し去っては、潜んでいる教訓を習得することが出来ないのではないだろうか。

日 交マイクル消滅後も関係者を集めて、毎年一回同窓会という飲み会が開催されてきた。今年も七月四日にJR神田駅前の飲食店で氏の婚約を兼ねた同窓会が催さ れたという話しを聞くにおよんで、氏が取り組んだ日交マイクルは時期尚早な試みでも理想主義的に走りすぎた取り組みでもなく、単なるサークル活動的な意味 合いでしかなかったのではないか、とさえ思えてくるのである。

●一千九百億円は返済?

こ の一千九百億円の債務について取材を進める中で氏は、一度も返済が終了したなどと言っていないのであった。カンブリア宮殿(テレビ東京)など一般マスコミ に多く露出しているのだが、一千九百億円の債務があたかも返済されたかのように言っているのは、マスコミの中のキャスターや司会者に過ぎない。概ね氏を紹 介するのは、「一千九百億円の債務がある会社を、黒タクの導入や専用乗り場を設置して経営改革を断行、利益の上がる会社にした」という文脈なのだ。

確 かに社長就任後に単年度の黒字は計上しているが、債務が返済されたとの話は聞いていない。むしろ銀行周辺筋の情報として、自前の年金基金の不足金とあわせ た負債総額は数百億円の規模で存在しているといわれている。実際に氏によって一千九百億円の債務が返済されたのかどうか、それを知るよすがが本紙連載企画 を始める契機となった。

前述の「タクシー王子、東京を往く。」には、次のような記述がある。
「一千九百億円の負債に対する銀行側 のプレッシャーは、待ったなしのところまできていた。二代目社長である父親・達朗に代わり、一朗は銀行側とタフな交渉を続けると同時にリストラを敢行。百 件以上の不動産や三十にも及ぶグループ会社の大半を売却。赤坂の一等地にあった本社自社ビルを売却し大井埠頭の倉庫街に移転させ、採算の悪い営業所を統廃 合。百人近いリストラを断行し、祖父の代から親しんだ麻布の自宅さえ手放した。一時、周囲からは『もう会社の所有権はあきらめたほうがいい』と言われたこ ともあったが、リストラと業務改善が徐々に実を結び、二〇〇三年からは売り上げも回復を見せ始める。そして、ようやく危機を乗り切った二〇〇五年、川鍋一 朗は業界最年少で社長に就任した」

 ここでも一千九百億円を返済したかのように思わせてはいるが、返済の事実の記述はない。本紙の取材結果は次のとおりである。

●法的清算による再生
  今日の日本交通は、一千九百億円の一部を資産売却で返済し、一部を法的清算で処理した上で再スタートを切ったものというのが経緯である。つまり子会社や不 動産などの資産売却では、債務の返済を賄えなかったのが実態だ。本紙で知り得た範囲での法的清算額は約五百億円。銀行周辺筋からは約六百億円の情報が入っ ており約百億円の差額がある。いずれにしてもこの法的清算は、メインバンクを中心に不特定多数の債権者にまで大きな被害が及んでいったのであった。

 そして「二〇〇三年からは売り上げも回復」と言っているが、二〇〇三年六月~二〇〇四年月期は確かに売り上げが七期ぶりに増加しているが、わずかに〇・三%増。そして五億二千三百万円の経常利益を計上しているのだが、二十億四千九百万円の繰越損失を抱えたままであった。

  さらに「ようやく危機を乗り切った二〇〇五年」とあるが、二〇〇五年という年は、前年に旧株式会社日交総本社が申し立てた特別清算開始手続きが東京地裁に よって決定されたのである。その時の負債額は三百九十七億円。これは、危機を乗り切ったのではなく、メインバンクから提示された債務返済スキームが一区切 り付いたことを意味している。言い換えればアメリカのビッグスリーのGMを想起してもらえば分かりやすいだろう。一旦、旧(株)日交総本社を破綻させて、 その後に不動産等資産の無いハイヤー・タクシー事業のみで再生を果たそうということである。そのことのメドがついたのが二〇〇五年という年であった。

蛇足ながら「川鍋一朗は業界最年少で社長に就任」とあるが、その時の氏は三十五歳であり、二十歳台でタクシー会社の社長に就任した例は枚挙に暇が無いくらいで、業界最年少は錯誤である。

  それはともかく氏は、メインバンクの立案した債務返済計画に沿って行動したのに過ぎないのであって、「一朗は銀行側とタフな交渉を続ける」などとメインバ ンクと対等の立場で債務返済計画を主体的に立案、作成できる状況に無かったのは想像に難くない。さらに債務総額を一千九百億円としていることにいささか首 を傾げざるを得ない。筆者のおぼろげながらではあるが、債務総額は二千五百億円からピーク時には二千七百億円なでに膨れ上がっていたのではないかと記憶し ている。一千九百億円というのは、氏が日本交通入りした一年八か月後にメインバンクから提示された再建計画書にある数字ではなかったか。この時点での不動 産や子会社を売却して返済する金額ではなかったか。

この債務返済にまつわる諸事情については次回、詳述する。

<予告>連載特集:タクシー王子・川鍋一朗研究

毎月10日・25日発行

タクシー日本新聞社

編集長の道草

<予告>連載特集:タクシー王子・川鍋一朗研究



本紙7月25日付第126号より掲載開始!

第一回目
東京大手四社の旗艦・日本交通の栄光と挫折
創業者川鍋秋蔵・達朗・一朗三氏へ続く系譜


 東京大手四社である大和自動車交通・日本交通・帝都自動車交通・国際自動車。
いわゆる「大日本帝国」である。
それがいまや、戦後タクシー業界を代表するリーディングカンパニーとしての
面影を喪失している。

 四社の旗艦であった日本交通は、二代目川鍋達朗氏がバブル経済崩壊にともない、
1900億円もの負の遺産を惹起した。
それを返済するために、三代目一朗氏は銀行主導のもとに膨大な資産を整理。
そしてその負の遺産は、全て解消されて会社も再建、再生のレールに乗ったかのようにみられ、
そして一般マスコミもそれを喧伝してきた。

 はたしてそれは真実なのであろうか。この素朴な疑問が取材の契機となった。
その後の取材の中で知り得たことは、日本交通が巷間いわれているのとは真逆の、
厳しい経営環境におかれている事実。
規制緩和後の新規・日交マイクルの失敗のほか、大量増車・タクシー会社の買収、
そして減車などの会社運営上の紆余曲折。

 今後の企業存亡の可否を論ずる中で、
日本交通の現在・過去・未来を検証していく。

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