編集長の道草
連載特集:日本交通の栄光と挫折・川鍋一朗研究 No.2
見習いがいきなり飛行機の操縦桿を握る
資産・子会社売り尽くす怒涛の撤退作戦
【タクシージャパン No.127号(09.8.10日号)より転載】
前回は、齢二十九の川鍋一朗氏がコンサルタントから転身し、二〇〇〇年に日本交通入りしたところから稿を起した。
本稿では、創業者で氏の祖父である故川鍋秋蔵氏により屹立した日本交通王国が、父の故達郎氏の時代に瓦解する。それを氏はどのように受け止めて、行動した のか。その結果、何を失い、何を得たのか。債務総額一千九百億円という数字が一人歩きしているが、実際の債務は、筆者の記憶からもそれを上回る金額だった のではなかったか。そしてその債務は一体、どのように処理されたのか。
氏が「怒涛の日々・・・」と振り返った、債務処理の全貌に迫る。(文責=高橋正信)
●入社後一年七か月
川鍋一朗氏が日交マイクルをスタートさせて一年。取締役として日本交通入りしてから、一年七か月が経過した二〇〇一年の夏のことである。突然、故達朗社長 ら経営幹部ともども、メインバンクに呼び出された。用件は、グループが抱える債務処理の返済計画だった。メインバンクは、故達郎氏ら経営陣に対してかなり 強圧的だったといわれ、返済計画への返答に一週間の猶予すら与えなかった。すでにメインバンクの腹は固まっていたのだ。それを察知した故達朗社長は、「致 し方ない」、他の役員も「(銀行に)あそこまでいわれたら・・・」と二つ返事で受け入れざるを得なかった。
これに対して氏は、「まだ、 一回目(の会議)なのに・・・」と寝耳に水で驚きを隠せなかったが、すぐにメインバンクが提示した債務返済計画を受け入れる以外に、現経営陣に残された選 択肢がないことに気づく。「飛行機の操縦士も副操縦士も、完全にやる気を失って操縦桿から手を離してしまった。これまで後ろで見習いをしていた私が、いき なりそこで操縦桿を握ることになってしまった。どうやって動くのかも良く分からないで・・・」と自嘲ぎみに語る氏にとって、晴天の霹靂、怒涛の日々の幕開 けとなるのであった。
●本社ビル売却が基点
氏の著書「タクシー王子、東京を往く。」(文芸春秋社発行)によると、「一〇〇件以上の不動産や、三〇にも及ぶグループ会社の大半を売却。赤坂の一等地にあった本社自社ビルを売却し、祖父の代から親しんだ麻布の自宅さえ手放した」と記している。
氏のいう怒涛の日々は、都内港区赤坂の一等地にある自社所有の本社ビルを売却すると社内告知した、二〇〇一年八月一日を基点とする。
こ の本社ビルの写真をご覧いただきたい。隣が、本社ビルの三倍はあろうかというハイヤー営業所と車庫ビルだ。隣のハイヤー営業所ビルも本社ビルと一緒に売却 したのである。その売却先が、オリックスであった。オーナーの宮内義彦氏は、時の小泉政権と深くかかわり、総理の諮問機関である総合規制改革会議の議長を 務めた人物である。グローバルスタンダード、構造改革を声高に、産業界全般の規制緩和を推進した。同時に自社のオリックスがその規制緩和の先頭に立ち事業 拡大を図ったことで、「現代の政商」と揶揄されることとなった。
タクシー事業も宮内氏らによって、ご多分にもれず二〇〇二年に規制緩和 され、業界は超供給過剰と運賃の値下げスパイラルに見舞われ、今日まで色を失い続けるのであった。一方でタクシー業界に追い打ちをかけるように、レンタ カーを規制緩和して大々的な事業展開をしていった。日本交通の本社跡地に建設されたオリックスのビルを眺めていると、それらが想起され感慨深いものがあ る。
●一等地の自宅も売却
さ らに都内港区元麻布にあった自宅だ。創業者故秋蔵氏が存命中は、年に一回恒例で都内業界幹部らを一堂に会して、自宅庭園でつつじを見る会が催されてきた。 また、外務省を通じた外国の賓客を、日本家屋の良さを知ってもらうために自宅に招いた。そんなことが当たり前のようにできる敷地が、実に五〇〇〇坪の大邸 宅であり、日本家屋の粋を極めたものであった。筆者も故秋蔵氏の通夜の折に訪れたことがあったが、門を入って母屋にたどり着くまでに、結構な距離を歩いた 記憶と、素晴らしい庭園だったという印象が今も強く残っている。
氏も、「麻布にあった自宅も、ゴルフの会員権も、売れるものは何もかも売 るという悲惨な状況に陥った。とても切なかった」と残念がったが、残念がるだけの価値のある邸宅であった。今でもこの界隈の土地は、坪五百万円~八百万円 で売りに出されている。敷地が五千坪ということになると、ざっと二百五十億円から四百億円という、とんでもない金額になる。
とはいえこの 自宅は、故秋蔵氏の時代にすでに相続税対策として、法人の所有になっていたようだ。一九八三年に亡くなった故秋蔵氏の相続財産が麻布税務署で公示され、取 材した時に、その額が想像をはるかに下回る二十数億円ということで、目を疑って何度も告示板を眺めていたことを記憶している。
●これだけあった子会社
そ の他にもサテライトホテル後楽園と同ヨコハマ。私事だが横浜中華街付近にあったサテライトホテルヨコハマには、家族連れで宿泊したこともあった。ホテルと いえば都内品川区・港区芝浦のJR田町駅近くで、一九九六年に総額百四十億円を投じた「特徴ある都市型高品位複合ホテル」としてニューサテライトホテル芝 浦を竣工した。このホテルは、バブル期に建設計画が立案されたものであった。現在の林紀孝専務取締役が故達朗社長存命中の秘書課長時代に、このホテル建設 計画を取材したことがある。
筆者が、「いまからホテルを建設しても採算が合うはずは無い」と指摘したところ、林氏は、「すでに計画は進行 中で止められない。止めた場合、違約金が発生する」とのことだったが、重ねて「違約金が発生してもこれからの赤字を考えると計画を中止すべき」と忠言し た。これに林氏は、「そうは言っても違約金が建設総額と同じだけかかるので中止できない」とのことだった。結局、このホテルは赤字を出し続け、竣工四年後 の二〇〇〇年に日本航空に譲渡され、「ホテルJALシティ田町」へと衣替えするのだった。
その他に氏が指摘するように、自動車教習所や石油販売、さらにゴルフ場に不動産管理会社や年商百二十億円(二〇〇二年五月期)あったヘリコプター事業など、数え上げたら枚挙に暇がないぐらい、というよりも子会社すべてを売却ないし法的に清算した。
い ま、日本交通グループと呼べるのは、別法人で日本交通小田原、同立川、同埼玉のタクシー事業三社と車両運行管理請負業の日交サービス、それにクルマ辺以外 の日交データーサービスの計五社のみになった。(東洋交通は二〇〇七年に蔦交通は二〇〇八年にそれぞれ買収して経営傘下に収めている)
●返済は一千三百億円?
前号でも触れたように一千九百億円の債務は、氏が会社入りした一年七か月後の二〇〇一年七月に、メインバンクから提示された債務総額だった。
そして子会社や資産を売却して一千三百億円前後を返済し、そして六百億円前後を法的な特別清算でチャラにしたのである。ここに民間調査機関のニュースリリースの抜粋がある。
「(株) リバティーエステート(旧・(株)日交総本社、品川区八潮三-二-三十四、設立平成十四年五月、資本金六千三百八十万円、小野紘一清算人)は、二〇〇五年 十一月三十日開催の株主総会で解散を決議、東京地裁に特別清算手続を申し立て、二〇〇六年一月十日開始決定された。負債は約三百九十七億円。同社はタク シー・ハイヤー大手の日本交通(株)(品川区)及び同グループが所有する不動産管理を目的に昭和五十九年に設立された旧・日交総本社を母体とし、日本交通 を主たるテナントとして不動産管理業を展開。バブル期には所有不動産の再開発やホテルの経営など積極的な不動産投資を行った。しかし、バブル崩壊に伴う不 動産市況低迷により多額の有利子負債が経営の重荷となり、二〇〇二年五月グループ内で業態の重なる日本交通グループ会社の日交興業(株)、(株)ナベック スと合併し、本社物件などの管理業務に特化する新たな(株)日交総本社として法人化されていた」
旧日交総本社が特別清算手続きを申し立て た二〇〇五年九月九日には、子会社で千葉夷隅ゴルフクラブと那須黒羽ゴルフクラブを運営する株式会社グリーンクラブが、東京地裁に民事再生手続き開始を申 請して、保全命令を受けている。負債総額は、債権者三千五百四十四人に対して百二億一千三百万円。民事再生条件が、預託金の九五%カット、残り五%を五年 間かけて均等分割払いするという厳しい内容だった。その後、同社は第三者に売却されている。
上記からうかがえるのは、メインバンクから提示された一千九百億円の債務は、もてる資産や子会社を処分しても賄えない債務超過の実態にあり、その部分を法的に処理したということのようだ。
●以前から資産を売却
氏 の評価である、「一千九百億円の債務がある会社を、黒タクの導入や専用乗り場を設置して、経営改革を断行、利益の上がる会社にした」という文脈は、少し修 正を加えなければならない。即ち、一千九百億円の債務は、氏が会社入りした一年七か月後の二〇〇一年七月時点の数字で、子会社や資産を売却したあと法的な 清算、処理を行った金額ということになる。
メインバンクが債務返済計画を提示する以前から、資産売却は進められていた。その額は不明だ が、多くの不動産を売却したのは想像に難くない。前述した「ニューサテライトホテル芝浦」もそうだが、その他にも次のような例があった。メインバンクの返 済計画が提示される半年も前に、持分比率十二%ある山王パークタワーを三菱地所に売却しているが、売却代金が二百四十億円で持分比率から割り出すと二十八 億八千万円になり、有力な資産にも手を加えてきていることが分かる。
「黒タクの導入や専用乗り場を設置して、経営改革を断行」したとい う。確かに役員や管理職の人員整理を行なったのは事実である。しかし、氏が、「利益の上がる会社にした」というのは事実に反する。にわかに信じられないだ ろうが、日本交通は氏が会社入りする前からも黒字を続けており、氏が会社入りしたのち、日交マイクルを立ち上げ整理し数億円の赤字を飲み込んで、なお黒字 を継続してきたのである。恐るべしは、東京大手四社の底力だ。氏の経営手腕によって「利益の上がる会社にした」のではなく、「利益の上がる会社に氏が入っ た」に過ぎない。昨年来の大幅な売り上げの減少に見舞われて、ここからが本当の意味で利益の上がる会社にすることができるのか、という意味で氏の手腕が試 されている。
「利益の上がる会社」の実態については、すでに紙幅がつきた。詳細を次回に譲りたい。
資産・子会社売り尽くす怒涛の撤退作戦
【タクシージャパン No.127号(09.8.10日号)より転載】
前回は、齢二十九の川鍋一朗氏がコンサルタントから転身し、二〇〇〇年に日本交通入りしたところから稿を起した。
本稿では、創業者で氏の祖父である故川鍋秋蔵氏により屹立した日本交通王国が、父の故達郎氏の時代に瓦解する。それを氏はどのように受け止めて、行動した のか。その結果、何を失い、何を得たのか。債務総額一千九百億円という数字が一人歩きしているが、実際の債務は、筆者の記憶からもそれを上回る金額だった のではなかったか。そしてその債務は一体、どのように処理されたのか。
氏が「怒涛の日々・・・」と振り返った、債務処理の全貌に迫る。(文責=高橋正信)
●入社後一年七か月
川鍋一朗氏が日交マイクルをスタートさせて一年。取締役として日本交通入りしてから、一年七か月が経過した二〇〇一年の夏のことである。突然、故達朗社長 ら経営幹部ともども、メインバンクに呼び出された。用件は、グループが抱える債務処理の返済計画だった。メインバンクは、故達郎氏ら経営陣に対してかなり 強圧的だったといわれ、返済計画への返答に一週間の猶予すら与えなかった。すでにメインバンクの腹は固まっていたのだ。それを察知した故達朗社長は、「致 し方ない」、他の役員も「(銀行に)あそこまでいわれたら・・・」と二つ返事で受け入れざるを得なかった。
これに対して氏は、「まだ、 一回目(の会議)なのに・・・」と寝耳に水で驚きを隠せなかったが、すぐにメインバンクが提示した債務返済計画を受け入れる以外に、現経営陣に残された選 択肢がないことに気づく。「飛行機の操縦士も副操縦士も、完全にやる気を失って操縦桿から手を離してしまった。これまで後ろで見習いをしていた私が、いき なりそこで操縦桿を握ることになってしまった。どうやって動くのかも良く分からないで・・・」と自嘲ぎみに語る氏にとって、晴天の霹靂、怒涛の日々の幕開 けとなるのであった。
●本社ビル売却が基点
氏の著書「タクシー王子、東京を往く。」(文芸春秋社発行)によると、「一〇〇件以上の不動産や、三〇にも及ぶグループ会社の大半を売却。赤坂の一等地にあった本社自社ビルを売却し、祖父の代から親しんだ麻布の自宅さえ手放した」と記している。
氏のいう怒涛の日々は、都内港区赤坂の一等地にある自社所有の本社ビルを売却すると社内告知した、二〇〇一年八月一日を基点とする。
こ の本社ビルの写真をご覧いただきたい。隣が、本社ビルの三倍はあろうかというハイヤー営業所と車庫ビルだ。隣のハイヤー営業所ビルも本社ビルと一緒に売却 したのである。その売却先が、オリックスであった。オーナーの宮内義彦氏は、時の小泉政権と深くかかわり、総理の諮問機関である総合規制改革会議の議長を 務めた人物である。グローバルスタンダード、構造改革を声高に、産業界全般の規制緩和を推進した。同時に自社のオリックスがその規制緩和の先頭に立ち事業 拡大を図ったことで、「現代の政商」と揶揄されることとなった。
タクシー事業も宮内氏らによって、ご多分にもれず二〇〇二年に規制緩和 され、業界は超供給過剰と運賃の値下げスパイラルに見舞われ、今日まで色を失い続けるのであった。一方でタクシー業界に追い打ちをかけるように、レンタ カーを規制緩和して大々的な事業展開をしていった。日本交通の本社跡地に建設されたオリックスのビルを眺めていると、それらが想起され感慨深いものがあ る。
●一等地の自宅も売却
さ らに都内港区元麻布にあった自宅だ。創業者故秋蔵氏が存命中は、年に一回恒例で都内業界幹部らを一堂に会して、自宅庭園でつつじを見る会が催されてきた。 また、外務省を通じた外国の賓客を、日本家屋の良さを知ってもらうために自宅に招いた。そんなことが当たり前のようにできる敷地が、実に五〇〇〇坪の大邸 宅であり、日本家屋の粋を極めたものであった。筆者も故秋蔵氏の通夜の折に訪れたことがあったが、門を入って母屋にたどり着くまでに、結構な距離を歩いた 記憶と、素晴らしい庭園だったという印象が今も強く残っている。
氏も、「麻布にあった自宅も、ゴルフの会員権も、売れるものは何もかも売 るという悲惨な状況に陥った。とても切なかった」と残念がったが、残念がるだけの価値のある邸宅であった。今でもこの界隈の土地は、坪五百万円~八百万円 で売りに出されている。敷地が五千坪ということになると、ざっと二百五十億円から四百億円という、とんでもない金額になる。
とはいえこの 自宅は、故秋蔵氏の時代にすでに相続税対策として、法人の所有になっていたようだ。一九八三年に亡くなった故秋蔵氏の相続財産が麻布税務署で公示され、取 材した時に、その額が想像をはるかに下回る二十数億円ということで、目を疑って何度も告示板を眺めていたことを記憶している。
●これだけあった子会社
そ の他にもサテライトホテル後楽園と同ヨコハマ。私事だが横浜中華街付近にあったサテライトホテルヨコハマには、家族連れで宿泊したこともあった。ホテルと いえば都内品川区・港区芝浦のJR田町駅近くで、一九九六年に総額百四十億円を投じた「特徴ある都市型高品位複合ホテル」としてニューサテライトホテル芝 浦を竣工した。このホテルは、バブル期に建設計画が立案されたものであった。現在の林紀孝専務取締役が故達朗社長存命中の秘書課長時代に、このホテル建設 計画を取材したことがある。
筆者が、「いまからホテルを建設しても採算が合うはずは無い」と指摘したところ、林氏は、「すでに計画は進行 中で止められない。止めた場合、違約金が発生する」とのことだったが、重ねて「違約金が発生してもこれからの赤字を考えると計画を中止すべき」と忠言し た。これに林氏は、「そうは言っても違約金が建設総額と同じだけかかるので中止できない」とのことだった。結局、このホテルは赤字を出し続け、竣工四年後 の二〇〇〇年に日本航空に譲渡され、「ホテルJALシティ田町」へと衣替えするのだった。
その他に氏が指摘するように、自動車教習所や石油販売、さらにゴルフ場に不動産管理会社や年商百二十億円(二〇〇二年五月期)あったヘリコプター事業など、数え上げたら枚挙に暇がないぐらい、というよりも子会社すべてを売却ないし法的に清算した。
い ま、日本交通グループと呼べるのは、別法人で日本交通小田原、同立川、同埼玉のタクシー事業三社と車両運行管理請負業の日交サービス、それにクルマ辺以外 の日交データーサービスの計五社のみになった。(東洋交通は二〇〇七年に蔦交通は二〇〇八年にそれぞれ買収して経営傘下に収めている)
●返済は一千三百億円?
前号でも触れたように一千九百億円の債務は、氏が会社入りした一年七か月後の二〇〇一年七月に、メインバンクから提示された債務総額だった。
そして子会社や資産を売却して一千三百億円前後を返済し、そして六百億円前後を法的な特別清算でチャラにしたのである。ここに民間調査機関のニュースリリースの抜粋がある。
「(株) リバティーエステート(旧・(株)日交総本社、品川区八潮三-二-三十四、設立平成十四年五月、資本金六千三百八十万円、小野紘一清算人)は、二〇〇五年 十一月三十日開催の株主総会で解散を決議、東京地裁に特別清算手続を申し立て、二〇〇六年一月十日開始決定された。負債は約三百九十七億円。同社はタク シー・ハイヤー大手の日本交通(株)(品川区)及び同グループが所有する不動産管理を目的に昭和五十九年に設立された旧・日交総本社を母体とし、日本交通 を主たるテナントとして不動産管理業を展開。バブル期には所有不動産の再開発やホテルの経営など積極的な不動産投資を行った。しかし、バブル崩壊に伴う不 動産市況低迷により多額の有利子負債が経営の重荷となり、二〇〇二年五月グループ内で業態の重なる日本交通グループ会社の日交興業(株)、(株)ナベック スと合併し、本社物件などの管理業務に特化する新たな(株)日交総本社として法人化されていた」
旧日交総本社が特別清算手続きを申し立て た二〇〇五年九月九日には、子会社で千葉夷隅ゴルフクラブと那須黒羽ゴルフクラブを運営する株式会社グリーンクラブが、東京地裁に民事再生手続き開始を申 請して、保全命令を受けている。負債総額は、債権者三千五百四十四人に対して百二億一千三百万円。民事再生条件が、預託金の九五%カット、残り五%を五年 間かけて均等分割払いするという厳しい内容だった。その後、同社は第三者に売却されている。
上記からうかがえるのは、メインバンクから提示された一千九百億円の債務は、もてる資産や子会社を処分しても賄えない債務超過の実態にあり、その部分を法的に処理したということのようだ。
●以前から資産を売却
氏 の評価である、「一千九百億円の債務がある会社を、黒タクの導入や専用乗り場を設置して、経営改革を断行、利益の上がる会社にした」という文脈は、少し修 正を加えなければならない。即ち、一千九百億円の債務は、氏が会社入りした一年七か月後の二〇〇一年七月時点の数字で、子会社や資産を売却したあと法的な 清算、処理を行った金額ということになる。
メインバンクが債務返済計画を提示する以前から、資産売却は進められていた。その額は不明だ が、多くの不動産を売却したのは想像に難くない。前述した「ニューサテライトホテル芝浦」もそうだが、その他にも次のような例があった。メインバンクの返 済計画が提示される半年も前に、持分比率十二%ある山王パークタワーを三菱地所に売却しているが、売却代金が二百四十億円で持分比率から割り出すと二十八 億八千万円になり、有力な資産にも手を加えてきていることが分かる。
「黒タクの導入や専用乗り場を設置して、経営改革を断行」したとい う。確かに役員や管理職の人員整理を行なったのは事実である。しかし、氏が、「利益の上がる会社にした」というのは事実に反する。にわかに信じられないだ ろうが、日本交通は氏が会社入りする前からも黒字を続けており、氏が会社入りしたのち、日交マイクルを立ち上げ整理し数億円の赤字を飲み込んで、なお黒字 を継続してきたのである。恐るべしは、東京大手四社の底力だ。氏の経営手腕によって「利益の上がる会社にした」のではなく、「利益の上がる会社に氏が入っ た」に過ぎない。昨年来の大幅な売り上げの減少に見舞われて、ここからが本当の意味で利益の上がる会社にすることができるのか、という意味で氏の手腕が試 されている。
「利益の上がる会社」の実態については、すでに紙幅がつきた。詳細を次回に譲りたい。
連載特集:東京・日本交通の栄光と挫折・川鍋一朗研究 No.1
タクシー王子の言動から見えてくるものそれは、悪戦苦闘する等身大の青年の姿
【タクシージャパン No.126号(09.7.25日号)より転載】
大和自動車交通、日本交通、帝都自動車交通、国際自動車の東京大手四社は、大日本帝国と呼ばれ戦後のタクシー業界をリードしてきた。その四社ともバブル経済崩壊を契機に程度の差こそあれ、急速に過日の面影、面目を喪失していく。
四社の中でも国際自動車と覇を競ってきた日本交通も、ご他聞に漏れず川鍋一朗氏の父親である故達朗氏がホテル業の拡大やビル建設などの不動産投資を中心にバブル渦にはまり、一千九百億円もの債務を作ってしまったのだ。
そ して一朗氏は二〇〇〇年に二十九歳の若さで日本交通入りして、今日に至っている。その後の一朗氏の言動を振り返ってみると、巷間で取沙汰されているタク シー王子ともてはやされるイケメン青年実業家、辣腕の経営改革者とは異なる、悪戦苦闘する等身大の一人の青年の姿が浮かび上がってくる。
創業者、故秋蔵氏によって栄華を極めた日本交通王国が、事実上達朗氏の時代に瓦解した。そのあとを受けた一朗氏は、はたして王国再興を果たすことが出来るのか。その可否を日本交通の現在・過去・未来を検証する中で模索したい。(文責=高橋正信)
●コンサルからの転身
川 鍋一朗氏は、一九七〇年生まれで今年三十九歳になる。慶応大学経済学部を卒業後、ノースウエスタン大学ケロッグ経営大学院を修了し、MBA(経営学修士) を取得している。ケロッグ・スクールは、ハーバード・スタンフォード・ペンシルベニア・シカゴの各大学のビジネススクールとともに、世界的に高い評価を受 けている一つといわれる。
一九九七年に帰国後、コンサルタント会社の草分けであるマッキンゼー日本支社に勤務。三年後の二〇〇〇年に日本交通入りしている。日本交通入りするまでの自らについて、氏はあるパネルディスカッションで次のように語っている。
「私の人生は一九九九年まではほんとうに幸せでした。非常に裕福な家庭に生まれ、MBA取得・マッキンゼー入社と素晴らしい人生が開けると思っていました」
それが一転して日本交通入りする訳だが、その時の心境について、「マッキンゼーに入って二年半ぐらいたっていて、コンサルタントとしてもいわゆるUp or Out、昇進するかどうかという時期で、Upに行くのもかなりつらいなあと思っていました。自他共に認めるLow performerだったので (笑)。コンサルタントとして生計を立てられるとは思えず」に日本交通入りしたとの心境を明らかにしている。
●日交マイクルの失敗
二〇〇〇年に日本交通入りした氏の感想は、①会社のバランスシートを見てビックリした。左側の資産部分も大きかったのだけど、右側の負債の方がずっと大き かった②取締役会に出席して、経理部長がその月の数字を淡々と読み上げていた。取締役の一人が本当に眠っていて驚いた③マッキンゼーにいたから、取締役会 というのは議論を戦わせてバリューを出す場だと思っていたのだが、コンサルタントとして色んな会社を見てきたが、一番ひどかった―というものであった。
そこで氏は、取締役会の中で「こんなんではだめだ!」と出席の取締役をヒステリックに叱り飛ばしたために、「お陰で一年間、完全に干された」と振り返る。 コンサルタントの本来の任務が経営者、経営陣に対してより良い経営改善策を提示して、その上で指導、教育することにあるとすれば氏が「干された」というこ と事態が、コンサル以前の次第であったことがうかがえる。
そこで氏は、はたと考えた。「(日本交通)本体を変革するのが難しいのなら、自分の血をもった異分子を作ろう」と。これが誕生からわずか四年で消滅する新規許可の子会社「日交マイクル」である。
●仮想現実のプラン
日交マイクルは、二〇〇〇年七月に事業を開始した。ミニバンを用いた新型会員制ハイヤー、リムジンタクシーで、乗務員を旅行代理店や広告代理店、ホテル関 係などの他のサービス業から若い転職者(平均年齢三十四歳)を採用。動くオフィス、会議室というコンセプトで新しいハイヤー・タクシービジネスの構築を目 指したものだった。
氏は、「論理上は完璧なビジネスプランだったのに・・・」と悔やんだが、結果は、ハイヤー・タクシー事業の要諦が何 たるかも分からないシロウト経営と揶揄され、三か月たっても半年たっても毎月一千万円単位の赤字を重ね続けた。そして日本交通の最大労組である日交労働組 合からも、「赤字経営の系列会社解消」を求められる始末であった。
大手企業から新しいハイヤー・タクシーのビジネスプランを求められたコ ンサルタントが、それなりに一生懸命に考えてプレゼンしたのはいいが、そこに働く人やマーケットの規模、性格、経営収支などの現場、現実を押さえたプラン が欠落していたために、事業として立ち上がらないまま消滅するのである。そして氏自身が奇しくも語っているように日交マイクルは、「仮想現実のビジネスプ ラン」でしかなかった。
●十回はクビに!
日交マイクルは四年間継続し、最終的には日本交通本 体に吸収されて消滅した。スタート当初から毎月一千万円単位の赤字が発生していたということは、累積では数億円の赤字にふくらんでいたと見られる。氏は、 「ベンチャー企業の社長だったら十回はクビになっています」と述懐しているが、ベンチャー企業の社長が数億円の累積赤字を計上したら、一回で破産、失脚す るのがオチではないか。
それどころか氏は、二〇〇五年に向けて、専務取締役、副社長、社長と日交マイクルの失敗が無かったかのように日本交通本体 のトップに登りつめていくのであった。常識ではあり得ない出世といえるのだが、日交マイクルの始末に労組の協力を頼み、そのことが後の経営再建にかかる労 組とのパワーバランスに微妙な影を落とす結果となった。今年の春闘時の日本交通本社前での日交労組による、これまでにない街宣活動がそれを如実に物語って いる。
日本交通のインターネット上のホームページに、日交マイクルの出自や結末が一切、触れられず消し去られているが、目に見えないところでの負の遺産は厳然として残った。
●日交・サークル?
唯一、日交マイクルに言及しているのが、昨年五月に発行した「タクシー王子、東京を往く。日本交通・三代目若社長『新人ドライバー日誌』」(川鍋一朗著、文芸春秋社発行、二〇〇八年五月三十日刊)
「アッ パークラスのサービスを主体とした日交マイクルを立ち上げる。この試みは時期尚早で失敗でしたが、この挫折をバネに、川鍋は生まれ変わる。理想主義に走り すぎていた自分を反省。泥臭くても、できることからひとつひとつ地道に変えていくことを選択したのだ。日本交通本社に戻り専務となった川鍋は、社内で徐々 に受け入れられていく」
社内で干されて日本交通本体の変革が難しいといって、自分の異分子である日交マイクルを作った。それが、数億円の 赤字を積み重ねた挙句に本体に吸収してもらった。その後に本体に帰ってきて専務になったからといって、「社内で徐々に受け入れられていく」とは考えにく い。メインバンクの了解や労組の協力、理解がなければ無理とみるのが妥当だろう。
成功体験よりも失敗体験の中にこそ多くの教訓が潜んでいるのだが、その失敗を消し去っては、潜んでいる教訓を習得することが出来ないのではないだろうか。
日 交マイクル消滅後も関係者を集めて、毎年一回同窓会という飲み会が開催されてきた。今年も七月四日にJR神田駅前の飲食店で氏の婚約を兼ねた同窓会が催さ れたという話しを聞くにおよんで、氏が取り組んだ日交マイクルは時期尚早な試みでも理想主義的に走りすぎた取り組みでもなく、単なるサークル活動的な意味 合いでしかなかったのではないか、とさえ思えてくるのである。
●一千九百億円は返済?
こ の一千九百億円の債務について取材を進める中で氏は、一度も返済が終了したなどと言っていないのであった。カンブリア宮殿(テレビ東京)など一般マスコミ に多く露出しているのだが、一千九百億円の債務があたかも返済されたかのように言っているのは、マスコミの中のキャスターや司会者に過ぎない。概ね氏を紹 介するのは、「一千九百億円の債務がある会社を、黒タクの導入や専用乗り場を設置して経営改革を断行、利益の上がる会社にした」という文脈なのだ。
確 かに社長就任後に単年度の黒字は計上しているが、債務が返済されたとの話は聞いていない。むしろ銀行周辺筋の情報として、自前の年金基金の不足金とあわせ た負債総額は数百億円の規模で存在しているといわれている。実際に氏によって一千九百億円の債務が返済されたのかどうか、それを知るよすがが本紙連載企画 を始める契機となった。
前述の「タクシー王子、東京を往く。」には、次のような記述がある。
「一千九百億円の負債に対する銀行側 のプレッシャーは、待ったなしのところまできていた。二代目社長である父親・達朗に代わり、一朗は銀行側とタフな交渉を続けると同時にリストラを敢行。百 件以上の不動産や三十にも及ぶグループ会社の大半を売却。赤坂の一等地にあった本社自社ビルを売却し大井埠頭の倉庫街に移転させ、採算の悪い営業所を統廃 合。百人近いリストラを断行し、祖父の代から親しんだ麻布の自宅さえ手放した。一時、周囲からは『もう会社の所有権はあきらめたほうがいい』と言われたこ ともあったが、リストラと業務改善が徐々に実を結び、二〇〇三年からは売り上げも回復を見せ始める。そして、ようやく危機を乗り切った二〇〇五年、川鍋一 朗は業界最年少で社長に就任した」
ここでも一千九百億円を返済したかのように思わせてはいるが、返済の事実の記述はない。本紙の取材結果は次のとおりである。
●法的清算による再生
今日の日本交通は、一千九百億円の一部を資産売却で返済し、一部を法的清算で処理した上で再スタートを切ったものというのが経緯である。つまり子会社や不 動産などの資産売却では、債務の返済を賄えなかったのが実態だ。本紙で知り得た範囲での法的清算額は約五百億円。銀行周辺筋からは約六百億円の情報が入っ ており約百億円の差額がある。いずれにしてもこの法的清算は、メインバンクを中心に不特定多数の債権者にまで大きな被害が及んでいったのであった。
そして「二〇〇三年からは売り上げも回復」と言っているが、二〇〇三年六月~二〇〇四年月期は確かに売り上げが七期ぶりに増加しているが、わずかに〇・三%増。そして五億二千三百万円の経常利益を計上しているのだが、二十億四千九百万円の繰越損失を抱えたままであった。
さらに「ようやく危機を乗り切った二〇〇五年」とあるが、二〇〇五年という年は、前年に旧株式会社日交総本社が申し立てた特別清算開始手続きが東京地裁に よって決定されたのである。その時の負債額は三百九十七億円。これは、危機を乗り切ったのではなく、メインバンクから提示された債務返済スキームが一区切 り付いたことを意味している。言い換えればアメリカのビッグスリーのGMを想起してもらえば分かりやすいだろう。一旦、旧(株)日交総本社を破綻させて、 その後に不動産等資産の無いハイヤー・タクシー事業のみで再生を果たそうということである。そのことのメドがついたのが二〇〇五年という年であった。
蛇足ながら「川鍋一朗は業界最年少で社長に就任」とあるが、その時の氏は三十五歳であり、二十歳台でタクシー会社の社長に就任した例は枚挙に暇が無いくらいで、業界最年少は錯誤である。
それはともかく氏は、メインバンクの立案した債務返済計画に沿って行動したのに過ぎないのであって、「一朗は銀行側とタフな交渉を続ける」などとメインバ ンクと対等の立場で債務返済計画を主体的に立案、作成できる状況に無かったのは想像に難くない。さらに債務総額を一千九百億円としていることにいささか首 を傾げざるを得ない。筆者のおぼろげながらではあるが、債務総額は二千五百億円からピーク時には二千七百億円なでに膨れ上がっていたのではないかと記憶し ている。一千九百億円というのは、氏が日本交通入りした一年八か月後にメインバンクから提示された再建計画書にある数字ではなかったか。この時点での不動 産や子会社を売却して返済する金額ではなかったか。
この債務返済にまつわる諸事情については次回、詳述する。
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